に人々は長い礼拝をして席を立った。
「左様なら牧師様」
「左様なら小母《おば》さん」
 信者達は静粛に、熱意をもって若い牧師に別れを述べ、牧師の背後に並んでいる痩せた老母に向って会釈した。
「ほんとに今日の御話は結構でございました。みなさんも大変熱心に聞いてましたよ」
 人々の去った後、「小母さん」と呼ばれた老母は、窓々のカーテンを引き乍ら牧師を振り返って微笑した。
「……隣りはうるさいんだね。どうしたんだろう。バタバタやって気がひけたよ……」
 牧師は寛衣を脱ぎ終って、小さい鏡に向って髪を撫でつけていた。
「亭主がね、何でも失業しているそうで。まことに当節は不景気でございますからね」
「いくら食うに困るからって、少しはこっちの手前も考えてくれるといいんだよ。あれじゃ信者達に対してみっともないねえ……」
 牧師は、先刻の皺を、再び眉間へ深く刻んだ。

       2

 十三年前だった。
 その当時、夫に死別したお松は、三人の子供を抱えて生活の最低下線上に立っていた。食わない日が幾日も続いた。夜になると、死が誘惑の手を拡げてお松親子を迎いにやってきた。死ぬ機会を見付ける事だけが問題だった。或真夜中、お松は子供達の手を曳いて、宛どもなく街を彷徨《さまよ》った。気力の脱け切った子猫のように、子供達は眼だけ光らせて従順《おとな》しく歩いていた。太い丈夫そうな松の木が逞しい腕を延ばしていた。併し其処迄行くには高い崖があった。レールが白く光っていた。だが汽車は仲々やってこなかった。河淵へ出た。温かい風が吹いていた。青い月の光りが、足元の水を深く見せていた。お松はやっと微笑した。その場所に辿りついた事を悦んだ。彼女の手は無意識に長男を突きとばしていた。
 次に二人の子供を両側に抱えて、彼女自身が飛び込んだ。呼ばれて、眼を開いて、お松は、白い敷布の上にのびのびと寝ていた自分に気が付いた。撥ね上ろうと焦《あせ》った。両側には二人の子供が寝息を立てていた。お松は周囲を眼で探した。やさしい笑皺の中に自分を見守っている眼があった。が、彼女はもう一度廻りを探した。ケン坊は、上の子は一体何処へ行っているんだろう?――
 聖《セント》ヨハネ教会の沢木教父は、慈しみ深い微笑《ほほえみ》で先ずお松親子を安心させた。人手がないから何時迄もいてくれるように、と彼の方から嘆願した。お松は肚《はら》の底
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング