誓約の箱の前で踊りを踊ったということ。しかも、ダビデ力をつくして踊れり、とあります。ダビデは我を忘れて夢中になって踊ったに違いありません。妻のミルカがこれを見て、大王ともあろうものが踊るなんて何事です、と夫を責めたのですが、ダビデは構わず踊ったのです。わたくしは、ダビデの、この子供に近い神様を怖がらない行動が真当であると思うのであります。神様に対してやましい心をもっていないからこそ踊りも踊れたのです。……」
寛衣の間へ手を入れてハンカチを取り出すと、牧師はそれを指の先に巻いて、器様に鼻の汗を拭った。へリオトロープの強い香気が会堂に拡がった。
「私の知り人に、最近悪思想に感化せられた学生が居ります。彼は以前私と会って快活に語り、笑いいたして居りましたが、ひと度この思想に捕われるや、最早私と会おうともしません。うつうつと考えこんでばかりいるのです。ダビデの如く快活に踊れよう筈がないのです。神様に懼れを抱いている証拠です。ところが、神様を正面《まとも》に見ることの出来ぬ人が最近次第に増してきました。悪思想が青年諸君を目指してやってくるのです。みなさアん、これは悪霊です。尤もらしい衣をまとったサタンなのです。クリスチャンは神様の御名によって、このサタンと最後迄闘い通さねばなりません。社会からこれを追い払わねばなりません。神様の御言葉に対してあく迄忠実でなければなりません。擢れをもたぬ自由な生活を……」
「畜生! どこで飲んできやがったんだ。やっと金を掴めやア チェッ、茄《ゆ》で蛸《だこ》になって帰ってきやがる……」
「当り前よ。俺アの取った銭は俺アの勝手じゃねえか。二六時中ゲジゲジ野郎の相手がでけるけえ、ヘン 酔ぱらわなきゃ 俺アにはこの世の中が暮していけねえよ……」
「……ま、一辺云ってみな、野郎……」
ガチャン バタン ガラ ガラ ガラ……
祭壇の壁一重隣りでは乱闘が始まった。
居眠っていた信者の一人は、慌てすぎて椅子から滑り落ちた。
「……で、ありますから、みなさアんも、この神様の御言葉をよおく味わって下さるようにお願いいたす次第であります……」
汗を拭き、咳払いをし、牧師はひそめた眉を忙《せわ》しく伸縮させた。
「献金!」
前列にいた毬栗《いがぐり》頭が皆の方を向いて野太い声を張りあげた。
赤い袋の中で銀貨がカチカチ音を立てた。
再び聖歌、祈り、最後
前へ
次へ
全12ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング