凍雲
矢田津世子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一日市《ひといち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少時|白《しら》けた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぼっち[#「ぼっち」に傍点]
−−

 秋田市から北の方へ、ものの一時間も汽車に揺られてゆくと、一日市《ひといち》という小駅がある。ここから軌道がわかれていて、五城目という町にいたる。小さな町である。封建時代の殻の中に、まだ居眠りをつづけているような、どこやら安閑とした町である。現に、一日市で通っている駅名も、元々、この町の名で呼び慣らされていたものだったけれども、いつのまにか奪取《とら》れてしまっていた。居眠りをしていたせいである。居眠りをしながら、この町は、老い萎えてゆくようにみえる。
 町の人たちの中には、軌道を利用するひとが尠い。結構足で間にあうところへ、わざわざ、金をかけることの莫迦らしさを知っていたから、大ていは、軌道に沿うた往還を歩いて行きかえりした。
 軌道の通じない頃は、この往還を幌馬車が通っていたし、雪が積りはじめると、これが箱橇に代えられた。町の人たちにとっては、そのころのほうが、暮しよかった。文明というものは、金のかかるものだと、こぼしあった。
 この往還の途中に、七曲りというところがある。年を経た松の巨木が目じるしになっていて、この辺は、徒歩のひとには誂えむきの休み所と見えるけれども、町の人たちは滅多に立ち寄るということがない。此処で休んでいるのは、ひと目で在郷者とさえ分るくらいであった。
 よく、この松の木に馬をつないで、一ぷくつけている馬方を見かけることがある。そんな時の、町の人たちの顔には、一種よそよそしいような、蔑むような、優越感を匂わせたような、複雑な表情が掠める。
 松の木は節くれだって、経てきた旧い年々の風雪を染みこませて、昔ながらに七曲りの辻に立っている。
 十一月に入って、ちらほら降り出す雪が積りはじめ、正月へかかる頃は、見渡すかぎり白ひといろの世界にかわる。二月の初め頃には、道は、屋根から行き来できるほどの高さになり、着ぶくれて丸っこくなった子供たちは、藁沓にぼっち[#「ぼっち」に傍点]をかむって、屋根から屋根へ、ひょいひょいと渡りながら、七曲りの松の木が小っちゃくなった、と燥ぎ立てる。
 町の屋根からは、この松の木が、雪に埋れて、ほんとうに背丈が低く、ちび[#「ちび」に傍点]て見えるのだった。
 この町には、七の日毎に市《いち》が立つ。老い萎えている町の呼吸が、この市日で、微かに保たれているようである。「五城目の市日」といえば、昔から、この近郷の人々が寄り集う慣わしであった。
 町の目抜き通りの上町下町をとおして、両側に、物売りが並ぶ。人が出盛る。
 この物語りは、漸う山々が白くなりだした頃からはじまる。この頃の季節には、近くの八郎潟からあがったばかりの白魚だの小鮒だのが、細い藻なんどのからんだまま、魚籃から一桝いくらで量られる。雷魚《はたはた》売りの呼び声が喧ましくなるのも、もう、直ぐである。買い手は、ブリコ(卵)のたっぷりとはいったところを素早く選み分けようとして、売り手との間に小さな諍いが起る。
 蕈を売る女衆が、ひっきりなしに呼びかける。奥山から背負ってきた小粒のなめこ[#「なめこ」に傍点]が多い。枯れた葉っぱがくっついていたりして、それなり量っているのを見て、買い手は笑いながら文句をつける。そして、ひとつまみばかり、まけさせる。
 この物売りたちの中にまじって、町の小商人たちも店を張る。下駄屋だの、太物屋だの小間物類の雑貨屋だの……。
 市の日は、飲み屋の書き入れ時で、うす汚れの暖簾をぴらぴらさせた屋台がいくつも並ぶ。まだ荷もあけないうちから、濁酒《どぶろく》をひっかけに行っている若い衆もある。酔った揚句の張り高声をあげて、荷も忘れて、あちこち浮かれ歩いたりしている。このような飲み助の相棒は、あぶらやの仙太親爺ときまっている。
 仙太は、この町での飲み頭《がしら》であった。酒にかけては抗《かな》うものがいない。この親爺が白面《しらふ》で歩いているのを、町の人たちは見かけたことがないという。
 仙太のあぶらやは、もと、この町でも指折りの旧家としてきこえていたけれど、いつの頃からか左前になって、今では、昔からのだだっぴろい店構えを、後取り息子の仙一がひとりで取りしきっている。先代の遺した産を、親父の仙太がけろりと、飲み乾してしまったと町の人たちの噂である。
 仙太は、ずっと鰥ぐらしを通しているが、これについて、町の人たちはいろいろに取沙汰していた。在のほうに隠し女がいるという噂も立ったが、これは、嘘らしい。
 噂を立てられながらも、仙太は、町の人からは相手にされなかった。相手にしてくれるのは、酔いどれ仲間ばかりである。
 綿入れの丹前《どんぶく》をひっかけた、のっぽの仙太が、ひょろひょろした足どりで町中を歩いていると、人びとは避けるようにして、足早にすぎてしまう。こんなおりのひとびとの顔には一種よそよそしいような、蔑むような、白々しい表情が掠めすぎる。それは、ちょうど人びとが、七曲りの松の木を眺め、松の近傍で憩うている在郷者を眺める時の表情に似ている。
 町の人たちの頭には、この七曲りの松の木は、いつも仙太と結びつけられて、不気味に印象されていた。
 往還をまだ幌馬車が通っていた頃のことであるから、もう、ずい分と昔のはなしになる。居眠りこけていたこの小さな町を、どよめき立たせるような出来事が起った。

 その頃、若かった仙太は、毎日の鬱した心をもてあましていた。恋女房のお高のことばかりが想われた。ふとした貸金のことから、親どうしの張り合いになって、お高は実家に連れ戻されているのであった。
 それ以来、若い仙太は、飼犬の黒をつれて、山へ行く日が続いた。
 犬は、その日も、尻尾を右巻きにして熊笹の藪に突き進んで行った。仙太は根っ子につまずいて転びそうになったが、立ちなおると、冷えびえする空気を深々と吸いこんで、銃を肩換えした。
 風が、うっすらと雪をかむった坊主の守山を一気におりて、松林を鳴らし去った。山の上空を険しく雲が覆うていた。
 仙太は、ザザ……と藪へわけ入った。
「黒! 黒!」
 犬は笹の間から黒い尖った顔を向けて待っている。
「何してる。そら、そこだ!」
 笹藪がはげしく音をたてて、ひとしきり、うねった。犬は、また、黒い瞳を向けた。途方にくれているようにみえた。
「何してる!」
 仙太は怒鳴った。そして、腰から笹に掩われて、凝っと立ち停っていた。
 松林が、ごう、と鳴った。雲が威嚇するように頭の上にひろがってきた。鴉が麓のほうへ急ぎ飛んだ。
 犬は尻尾を垂れて藪から道へ出た。身ぶるいをしながら、とっとと坂を駈け登って行った。
 仙太は朝日を啣えたまま、未だ同じところに立って考えに沈んでいた。
「黒じゃねえか、吃驚させるない」
 松林の向うで声がした。犬と一緒に古川町の先生が降りて来た。ざくざく、と石ころが鳴った。
「仙太さん、獲物あったかい?」
 仙太は黙って、辞儀をした。
「何撃ちにきた?」
「わしですか。何撃ちにきたか分らねえです」
「こんな天気だからな、蕈こ[#「こ」に傍点]取りにも会わねえして……。お父《ど》さん、家かい?」
 先生は手の甲で赤髭を撫でた。
「相変らずでして。寝てる間も起きてる間も、算盤玉こ[#「こ」に傍点]ばかりはじいていますて」
 仙太の父親は、油商売のほかに、高利で金を貸付けていた。
「算盤玉こ[#「こ」に傍点]もええが、お前のことにも困ったもんだな」
 仙太は藪を出て、先生のあとから道を下って行った。黒は早足で二三間さきを急いでいた。そして、時々ふりかえった。
 雲がすっかり空を覆い、いまにも雨が降りそうだった。松林が、ごうごう、音をたてていた。
「仕様ねえです。何言ったって始まらねえですよ、先生」
「昨晩《ゆうべ》な、お前のお父《ど》さんが来て大体の話は聞いたが、それあ菅原の家も無理矢理身重の高さんを引っ張って行くってのは道理に外れている! お父さんもお父さんで、約束は約束だからな、今すぐ出来ねえと断らんでも、なんとか言いようもあるもんだと思う。お前の家にとって千円位の金がなんとかならんわけでもあるまいし、おっつけ孫の顔を見ようというどたんばになって、親同志の張り合いじゃあ、仲人になったこの俺も立つ瀬がないというもんだして……」
「わしもそう思うです。お父《ど》にも何度も頼んでみたんですが、今じゃお父よりもお母《が》のほうが意地を張って、けしかけているような始末です。高の悪口ありったけ並べ立てて、ゆうべなんかも、穀《ごく》つぶしが減ってせいせいしたなんて……あんまりだと思うと、ついわしも肚が立って怒鳴りつけてしまうし、この頃は、家にいるとくさくさするので、山さばかり来ていますて」
 仙太は道端の松の木に片手を触れながら歩いた。
「俺も仲人になった手前、この話は何んとか纏りを付けねば、第一世間に顔向けが出来ねえしなあ。お前もここ暫らく辛抱して、楯つかねえ様にしな。おっつけ恰好がついたら、役場さでも出るようにして、家を別に二人っ切りで持つだなあ」
 仙太をやりすごしておいて、先生は、空を仰ぎながら立小便をした。
「何んと、雲の早えこと!」
 仙太は少しさきで待った。爪さきで石ころをはじきとばしながら、何故ともなく、結婚当時の生きいきとしたお高の姿を思い浮べていた。頤を突き出すようにした甘え顔の愛おしさ、羞を含んで俯向いた時の衿足の水々しさ、小指を上げて額の黒い細い縮れっ毛を掻きあげる仕癖までも、まざまざと浮んでくる。
 往還へ出て、二人は肩を並べて歩いた。埃が二人を包んで、さっと乾いた田圃へ流れ去った。田圃からは、鴉が何羽も、あとからあとからと舞い上った。
「先生、なんとはあ、ひでえ風でして」
 頬かむりの男がすれちがった。ちらりと仙太を見て偸み笑いをした。
 仙太は俯向いて歩いていた。
「ひとつ助けると思って、骨折って下さい。決して、御恩は忘れませんでして」
 仙太は何遍も繰りかえした。
 町通りの、古川町への曲り角で、仙太はもう一度同じことを頼んだ。先生は口元で笑った。
「仙太さん、矢っ張り忘れかねるんだな」
「あ、どうしても高と一緒になりたいです」
 仙太は生真面目に応えた。そして、詰め衿を着た先生が帽子に手をあてたままだんだん小さくなって行くのを、陽の翳った寒さの中で、いつまでも見送っていた。

 外は暗く、ひどい風になっていた。
 床屋の店には、近所の人たちが集まって、雑談をしたり将棋をさしたりしていた。親方自身は、黄色く汚れた前垂れをかけたなり、鉈豆煙管を咥えて新聞を読んでいた。にぶい十燭光がひとつ点っていた。
「若夫婦世の無情を恨んで……なんだと、県下でまた心中があったとよ……」
 親方は煙管を置いて、新聞の上に肉づきの好い手をあてがって、声を出して読みはじめた。
 畳屋が乗り出した。
「心中ていえあ、俺んとこみてえに女蛙《おなごびっき》ばかり殖えちゃあ……なあ、親方、それこそ親子心中でもしなけあならねえして」
「あぶらやさ下女《めらし》にやったら? この頃あ、手不足で、下女探してるって話しだよ」
「あぶらやも竈大きくしたもんだな。この節あ、県下の工場さ迄貸し付けてるって評判だぜ」
 将棋の手を休めずに、指物屋が口を挟んだ。
「三浦の家の山なあ、みんな買い取ったって、役場の時さんが言ってたよ」
「そうでねえ。登記所の鈴木さんな、ゆうべ髪刈りにきて言ってたが、裏山の方半分だとよ。それも買ったでなく、貸金の抵当だとよ」
「金持ちにあ金こ[#「こ」に傍点]貯まるばかしでな。貯まれば貯まる程きたなくなるってな。あぶらやのお父《ど》さんもお父さんだが、お母《が》さんの締まることったら、鶏さやる餌をな、市日の終《しま》ったあとさ籠こ[#「こ」に傍点]持たせて拾わせにやるってさあ」

次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング