がね、あぶらやさん、わしも酔狂であんたに頼んだでねえです。保険会社から喧ましく人がきて、先月末を期限で費った金を纏めて送ることになっているで、これを送らねえと、勢い保証人になった町長さんにも大迷惑をかけるで、わしもこの町にいられねえし、なんぼ仙太さん付いててくれても高も肩身が狭くなるべし、それや親戚づきあいで利子はまけて貰うとしても、ちっとばかしの田を抵当にするって初めっから言ってるしべ。それを承知していながら、せっぱ詰った今になって算段つかねえじゃあ、まるで、わしをぺてんにかけたようなものだ。お聞きでしょうがな、あんたは金は貯まってるが、人がしっかりしすぎているって町中の評判でして。人を見殺しに出来るですからな」
 こうなると仙太の母親は黙っていない。
「木工の会社さは、出すべき筋で出してるんで、いちいち、あんたから文句言われる道理がない。親戚親戚って、勝手に費った借金のあと始末じゃあ此方が元も子も失くしてしまわあ。仙太のさきざきを考えてみたって、まるで、孔のあいた金袋しょってる様でねえしか」
 あぶらやが加勢する。
「七百円の大金を五年無利子で融通して上げようというのに、自分の貸金みてえに催促されたんじゃあね、此方だって意地になって断りたくなりますよ」
「この調子だもんな。まるで、鬼だ!」
「ふん、此方が鬼なら、菅原さん、あんたは餓鬼でねえか。人の金ばかしあてにしてさ。危ねえ収入役だってことよ」
 柳屋先生の斡旋は全部徒労に帰してしまった。感情的にはっきり疎隔した両者は、思い出に更に昂奮しながら冷い風の中を帰って行った。
 先生は、十二時近くになって床にやすみながら、奥さん相手に語った。
「どっちもどっちだよ。仙太やお高さんには気の毒だが、とうとう話は別れることになった。生まれた子は、あぶらやで引き取ることに折り合いがついたよ。どうも仕様ない。俺には、もうこれ以上どうも出来ん」
 そして、
「仲人なんかは、もう、死んでも懲りごりだ」と、述懐した。

 青空の日が続くようになった。
 溝々は水嵩をまして氷の破片《かけら》は音をたてながら流れた。シャベルで水っぽい雪を掘ると青い蕗の芽が雪にまじって散った。陽当りの好い塀の下には黒い土が見え出した。橇はもう小屋にしまわれた。子供らは、どろどろに足袋を汚して母に叱られる日が多くなった。どうかすると顔にまで泥をつけて遊んだ。肩に手をかけ、背伸びをして、青空に浮んだ守山をのぞきあい、野火をつけに行く日を、わくわくしながら勘定した。
 仙太は、屋根に上って雪を投げ落していた。
「危ねえぞ」
 子供らは蜜柑箱に雪を入れて溝に運んだ。堰き止められた水が、やがて満ちて、どうと雪を圧し流すと、一度に歓声を上げた。
 仙太は耳をすました。嬰児の泣き声が下の間から微かに聞えていた。
「泣かせるな!」
 と、上から怒鳴った。母親のぶつぶつ言う声がきこえた。赤子が届けられて以来、仙太が極端に無口に、また、ひどく怒りっぽくなったのを母親は知っていた。そして、自分も一半の責任を感じて、出来るだけ逆らわないようにしていた。
 よく泣く児であった。殊に夜になると絶え間なしに泣き続けるのであった。
 その夜は寒かった。冬の閉じる頃よく襲うてくるあのきびしい凍てつきだった。
 仙太は、ふと、赤子の泣き声で眼をさました。そして、母親の溜息を聞いた。
「苦労かける子供《わらし》だなあ。なして、また生まれてきたやら」
 仙太は、かっとなって跳び起きて、あっけにとられている母親から赤子をひったくった。急に泣き叫ぶ赤子を抱えて、外にとび出した。父親が戸口まで追いかけて来た。
「仙! 気でも狂ったか」
 外は氷りつき、足駄がカラカラと鳴った。
 黒はふうふう、白い息を吐きながら主人の前を駈けて行った。
 仙太は、赤子を自分の肌にぴったりくっつけた。
「よしよし、な、よしよし」
 人通りはなかった。犬の遠吠が聞えた。
 お高とは先生のところで別れたきり逢わなかった。三日おいて新寺の墓所に行って待ったが、約束の時間を二時間すぎてもお高は来なかった。その時は、寒さが体にさわるからと善意に解したけれども、それっきり、もう、仙太の前には現われなかった。子供は生れて一と月目に、産婆の近藤さんが抱いてきた。牛乳は一日にこれこれの分量で、と説明したのち、
「あまり丈夫なほうでねえからね、母乳が一番ええどもなし」と、つけ足した。
 仙太は中町をまわって、知らず識らずのうちに菅原の家の前に立っていた。戸を敲こうとしたが、凝っと耐えて待った。
 嬰児は、かぼそい声で泣き続けた。
 誰か起きてくる気配がした。ひそめた話し声がした。叱りつけるような声もする。
 仙太は息を呑んで、戸口に顔をおしつけるようにして言った。
「菅原さん、仙太ですが……」
 返事はなかった。耳をすました。併し、なんにも聞えなかった。
「今晩は、今晩は」
 戸口を敲いてみた。仙太はだんだん息苦しくなるのを感じた。赤子は泣き歇まない。
 鶏が時をつくっていた。
 もう一度、と心に決めて敲いた。戸の音が妙に冴えているように感じられた。
 仙太は戸を離れた。動こうとしない黒を「叱っ!」といって追い立てた。そして、懐ろの児も忘れて、項垂《うなだ》れて家へ帰った。
「この寒さに何処さ行ってた! 子供を殺す気か」
 と父親が怒鳴った。
 母親は赤子を受けとるとすぐ自分の懐ろに入れて、皺んだ袋のような乳房をあてがいながら、
「何んと、手こ[#「こ」に傍点]の冷えていること! お前のお父さん酷《ひで》えお父さんだな。よしよし、今すぐ牛乳《ちち》のませてやるよ」
 冷えきった赤子の手をしゃぶってやりながら、炉端へいざり寄った。
 仙太は一言もいわずに次の間に入った。そして、寝床の上にうつ伏せになったなり、男泣きに泣いた。

 仙太は、また、山に行きはじめた。
 守山は、もう、黄色な山肌をすっかり現わしていた。雪はわずかに、陽蔭に汚れたまま残っていた。
 女衆は、嫁菜や芹つみに、ずくずくする畔道や堀の岸に集った。
「仙太さんでねえしか」
 女衆は手のひらで額へ陽かげをつくりながら声をかける。
「山さかい。山さ行ってもお高さん居ねえしてえ」
 そして、どっと笑い合った。
 町では、菅原孫市がとうとう町長に費消金をはらってもらったという評判だった。町の人々は、菅原派とあぶらや派の半々に別れた。町会でも、兎角感情の衝突が頻発するようになり、あぶらやでは相当金を撒いているとも言われた。
 仙太は町の噂には一切耳を藉さなかった。
 お高が秋田市のさる大家へ乳母として一と月程前勤めに行ったという話をきかされた時も、別段動揺しなかった。昼間は、犬をつれて、山へ行った。銃は持たなかった。そして、家へ帰ると子供を抱いたまま炉端に坐りこんで、じっと物思いに沈んだ。
 町では、仙太について、いろいろの取沙汰をしていた。しかし、仙太は、噂には無感覚になっていた。
 五月の末であった。二三日雨が続いた。
 赤子が腸カタルを起して、仙太は徹夜をつづけた。ひいひい、声を絞る赤子を抱いて、夜中部屋の中をとんとんと往き来した。ようよう泣き歇んで、横にしたかと思うと、すぐにまた声を絞った。仙太は、また、抱き上げて、とんとん、と歩きはじめる。
 医者は、時候のせいだと言った。曖昧に笑いながら、
「なんといっても、母乳にかなわねえですからな」とも言った。
 医者の帰ったあと、仙太は、永い間赤子の枕元に坐っていた。赤子は眼をつむったなり絶えだえに泣いた。仙太は赤子を忘れたように、腕組みをして黙りこんだ。そして、気力なく立ち上り、自分から薬をとりに医者の家へ行った。
 新町の通りで、時二郎に声をかけられた。
「仙太さん、なんと、窶れたなあ」
「仙一が具合わりくてな」
「そうかい、大事にな」
 時二郎は行きすぎてから戻ってきて、
「お前《めえ》、知ってるかい。お高さん、あさって県下から帰って来るってな」
「俺にあ用はねえ」
 と、仙太は横を向いた。

 翌々日、空は晴れあがっていたが、街道にはまだ処々に水溜りがあった。
 仙太は、弱々しい寝息を立てている子供の傍で、久しぶりに髭を剃った。鏡の中の顔を見、子供の顔を見た。どっちも、げっそり痩せていた。
 午すぎて、仙太は、山へ行く、と言ったなり黒をつれて家をとび出した。
「全で子供みてえなもんだな。好き勝手なことばかりして……」と、母親は愚痴っていた。
 駅からの往還を町へ三丁手前の七曲りの松の傍まで来た時、仙太は時計を見た。そして根かたに寝転んだ。
 馬車は一時三十五分に一台通った。仙太は立ち上ったが、また、寝転んだ。そして、そのまんま、ぐっすり眠った。
 はっと気がつき、しまったと思った。背中がぐっしょり濡れていた。時計は併し下りの馬車が来るまで、十分程あった。動悸のはずみを、じっと抑えた。
 馬車が姿を現わすと、仙太は往来へとび出した。彼《あれ》を慥かに視た。
「爺っちゃ、止ってけれ!」
 馬車屋は、中の客へ早口に何か言って、馬に鞭をあてた。馬車は傾き、水煙りをたてて仙太の前を激しく揺れ進んだ。
「待て!」
 と、仙太は叫んだ。
「話あるから、待て!」
 仙太は馬車を追った。犬は吠え立てながら先を走った。
「なして、待たねえんだ!」
 ようよう馬の手綱を掴えて、息を途切らし、いきなり馬車にとび乗りさま、お高に襲いかかった。
「仙太さん!」
 お高は抵抗した。仙太はお高を馬車の外へ曳きずり落した。犬は二人のまわりをぐるぐる廻りながら吠え立てた。
「話きいて、さ」
 お高は道に膝をついて、落ちつかせようと男の着物を合せた。ふと、ゆるんだ懐ろに剃刀を見て、
「あっ!」
 と、鋭く叫んで、矢庭に下駄を投げつけた。
 仙太は剃刀を思い出した。懐ろへ手をやった。馬車に逃げ込もうとした女の髪を引っ掴んで、ひき倒した。女は手で自分の喉を抑え、うつ伏せになろうと努力した。白い刃が閃いた。鮮血が女の顔に一線をひいた。と、どどっと流れて水溜りを赤く染めた。男の腕が振り上がり、女の頸に突き刺さった。女は低く叫んだ。うつ伏せになり動かなくなった。
 犬は狂ったように吠え立てた。二人の廻りをぐるぐる廻っていた。

 お高は、現在《いま》、達者で、秋田市の茶町に、居を構えていると聞いている。あの事件以来この町にも居づらくなって、間もなく、菅原一家は夜逃げ同様引き移っていってしまった。せんだって、この町の助役の奥さんが、県下へ出たついでに立ち寄った折りの話によると、お高の父親の孫市は、ブローカーとは名ばかりの、下駄べらしに出歩くばかりが能だというし、この年寄りを抱えて、お高は、お針の師匠をつとめるかたわら、手内職ごとで、どうにか生計をたてているという。
 奥さんと話している間、お高は、袂で片頬を隠すようにしていたが、大きな疵あとが、眼の下から頸部へかけて、黒ずんだ溝をつくり、そこだけ皮膚がひきつっているため、ちょうど顔半分が竦んでいるようにみえたという。
 この奥さんの話から、町の人たちはとりどりに噂をひろげていった。
 疵が邪魔とは言いじょう、若い頃あれほどの縹緻よしだったお高が、今迄独り身でおかれるわけはない。囲いものさ、などと取り沙汰をするものもある。
 あぶらやの後取り息子の仙一が、茶町のお高の家から出て来るところを見かけた、というものもあって、町の噂はだんだん活気づいてくる。
 今年十九の仙一は、父親に似て背が高く、眉の初々しい若者だ。店のことから、飲んだくれの父親の世話まで万端ひとりで取りしきっている。隣家の判こ[#「こ」に傍点]屋の末娘と、どうとやら、この日頃、噂をたてられているようだけれど、これも、噂好きな町の人たちの、ほんの噂ばなしかもしれない。
[#地から1字上げ](昭和十三年十二月)



底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:
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