事はなかった。耳をすました。併し、なんにも聞えなかった。
「今晩は、今晩は」
 戸口を敲いてみた。仙太はだんだん息苦しくなるのを感じた。赤子は泣き歇まない。
 鶏が時をつくっていた。
 もう一度、と心に決めて敲いた。戸の音が妙に冴えているように感じられた。
 仙太は戸を離れた。動こうとしない黒を「叱っ!」といって追い立てた。そして、懐ろの児も忘れて、項垂《うなだ》れて家へ帰った。
「この寒さに何処さ行ってた! 子供を殺す気か」
 と父親が怒鳴った。
 母親は赤子を受けとるとすぐ自分の懐ろに入れて、皺んだ袋のような乳房をあてがいながら、
「何んと、手こ[#「こ」に傍点]の冷えていること! お前のお父さん酷《ひで》えお父さんだな。よしよし、今すぐ牛乳《ちち》のませてやるよ」
 冷えきった赤子の手をしゃぶってやりながら、炉端へいざり寄った。
 仙太は一言もいわずに次の間に入った。そして、寝床の上にうつ伏せになったなり、男泣きに泣いた。

 仙太は、また、山に行きはじめた。
 守山は、もう、黄色な山肌をすっかり現わしていた。雪はわずかに、陽蔭に汚れたまま残っていた。
 女衆は、嫁菜や芹つみに、
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