。そんなことから、お高の父親は肚を立てて、お高を連れ戻した――と、これは畳屋の話である。
「いやあ、その県下の工場へは、菅原さんが出したって話だがね。そいつがどうも、保険料を融通したんで、その埋合せをあぶらやに頼んだところが、約束ばかりでね。さっぱり金の面《つら》こ[#「こ」に傍点]をみせてくれねえもんで、菅原さん、肚たてたんだな。肚立てるのも無理がないさ」
戸籍係りの時二郎が物識り顔で言った。みんなは、どっちにも信をおきかねたが、菅原と同じ役場に勤めているという訳からも、時二郎の言葉の方を重く聴いた。
お高の父親の菅原孫市は、役場の収入役を勤めるかたわら、保険会社の代理店をも引きうけていた。これ迄も、使い込みがばれて、会社との間にいざこざがあったけれども、その都度、町長が仲に入って、取り纏めてきたという噂も立っていた。
つまった煙管を真っ赤になって吹き通していた親方は、吻っとひと息いれて、
「可哀相なのはお高さんだなあ。あんな縹緻《きりょう》よしがさ。どうだ、時さん、ひとつ、あたってみないかい」
「駄目だってこと」
「でも、お高さんが好いていたら、どうするえ」
時二郎は黙った。
「やっぱりな」
親方は頷いた。
硝子戸が音を立てて開き、急に冷たい風が流れこんできた。黒が入って来た。そのあとから仙太がのっそりと入って来た。みんなはしんとして仙太の顔を見た。眼ばかりが大きく、異様に光ってみえた。
「今晩は、皆お揃いで」
そして、ちらと時二郎を見たが、気にもとめずに鏡の前に坐った。
「親方、髭あたってけれ」
親方はポンポン、と囲炉裏に火を落して、煙を鼻からふうっと吹いた。
「寒くなったしなあ」
明らかにうろたえていた。畳屋と他の二人は仕事が残っているからとて出て行った。指物屋は床屋の長男と将棋をさし出した。時二郎は新聞を見ていたが「おばこ節」を鼻唄で唄っていた。
「なんと、黒の大きくなったこと」
親方は剃刀を研ぎながら黒を見た。そして、湯をとりに奥へ入っていった。
仙太は据った眼付きで鏡をみていた。辺《あたり》の何物にも気が届かぬふうである。
ひとわたり剃りが終った時、親方はまた剃刀を研いだ。
「親方、わしとこに、県下から買ってきた西洋剃刀あるけど、日本剃刀とどっちの方が好く切れるべがな」
鏡の中で、仙太がきいた。
「そ、それあ、西洋剃刀でしょう。が使い慣れないと怪我するでね」
時二郎が大きく欠伸して出て行った。
「なんか、面白い話でもあったんか?」
「今朝の新聞の心中ものを読んでいたところでして」
親方はぎごちなく笑った。そして、研ぎ上った剃刀を頭へあてがい切れ味を試した。
外は風がまだやまなかった。硝子戸が激しく鳴っていた。
仙太は、冷えた湯で顔をなでられるごとに口をきつく結んだ。
「一服していったら」
仙太が立上り、前をはたくと、親方は炉端の煙管を取りあげた。
黒はむっくり起きて、主人に跟いて出て行った。
「仙太さんも変ってきたなあ」
と親方は、煙草を詰めながら独りごちた。
雨は降らなかった。風は闇の中に烈しく音を立てていた。一里はなれた線路を走る汽車の汽笛が微かに懐えてきこえた。
墓地は暗く、椎の木が苦しげにうめき叫んでいた。
仙太は立ったなり何度も燐寸を擦った。
「坐ったらいいのに……」
お高はうずくまって、袂を屏風にしてやった。
「寒くないかい」
「それよか、人に見られるといけないから、もう少し小っちゃくなったら」
仙太はくすん、と笑って、肩を屈めるようにしてお高に寄り添うた。
「駄目だ」
莨を足で踏みにじって、いっ時、息を呑むようにしていたが、思いきって尋ねた。
「この前、遅くなって、なんとも言われなかったか」
「うん、何にも。でも、知ってて知らんふりしているかも知れないけど……」
仙太の気持はだんだん落ち付いてきた。そして、その後の出来事をずっと話した。父親は、自分の出様によっては、我を折ってくれる見込みも立っているけれど、母親がどうしても意地になっていて、承知しそうもない。「金で嫁を買ったんじゃあない」と頑張るのだ。――仙太は眼を伏せて言った。お高も眼を伏せてきいた。――二人の仲は、県下の学校に行っている時からのものだから、無論その愛は純潔で、何ら非難を受くべきでない。しかし、事がこう面倒になってきては、全く手の施しようもない。意地を張っている俺《おら》方の母親も分らず屋だが、犬っころみたいにお前を連れ帰ったお父さんも少し短気すぎる。でも、柳屋先生が元通りに納めてみせるって、今日も言っていたし、自分は何度も何度も頼んでおいたから、きっと万事旨くいくだろう。先生は、自分を役場の方へも世話してくれる積りだ。二人で別居して、水入らずの家をもて、と迄言って下さった。―
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング