たのは羽も衰え何か億劫げだった。陸橋の下にトタンの大きな板があって、そのあわいが鳩の巣になっているらしかった。陸橋もトタン板もその下を走る汽車の煙で真っ黒になり、そんなところに巣がけしている鳩の姿があわれに見えた。
さっきから危なっかしいトタンの端であちこちしていた二羽の鳩が、前後して線路に下りたかと思うと、すっぽかすようにすぐに一羽がトタンへ戻った。踵を返すといった慌てかたで残された一羽が追いかけたけれど、見向きもされない。どこまでも引き添い追って行く。身を寄せ嘴をこする。背にとまりかけては羽搏き出される。清子は何がなし眼を逸らした。
霊泉寺温泉の宿に着いた頃は、さすがに姑も疲れていた。途中、長々と乗合に揺られてきたせいもある。しかし姑は湯に入るとすぐ元気になった。蛇口の湯でうがいをしたり、みんながするように濡れ手拭を頭にのせたり、清子に足を揉ませたりして上機嫌だった。
「ほら、見てけれせえ。足コの軽くなったこと……温泉は有難いもんだしな」
姑は清子の前をしゃんしゃん歩いてみせ、もう夕闇のきている庭へ止めるのもきかず出て行ったりした。
素朴な屋造りだった。宿屋というよりは、掃除の行き届いた農家といった感じである。庭もなまじこしらえてないのがよかった。離れになっている清子たちの部屋からは、すぐと眼前に、梅の古木を眺められた。枝の先きにだけ数えられるほどの白い輪が、思いがけない高い香りで匂ってくる。枯れ衰えた老木の気位の高い意地をみるようだった。
炬燵の上に膳が運ばれた。わざわざ丸子町へでも行って用意したのか、刺身に煮魚まで添えてあった。田芹のおひたしに、大きな塗椀の中にはぷつぷつと泡立っているとろろ[#「とろろ」に傍点]汁が入っていた。土地の名物の芋なのか、肌白な粘りのつよいとろろ[#「とろろ」に傍点]である。山|間《あい》のこの湯宿には過ぎた料理だった。箸を動かしながら清子はまたしても良人のことを思った。今は妙に肚立たしい気持である。この膳のものを一皿一皿良人の口に押し込んでやりたい苛立たしさである。黙っているその口をこじ開けても押しこんでやりたい居たたまれぬ情けない気持だった。
裏の竹藪のあたりで鋭い小鳥の声がしていた。居ながらに山の望める静かな部屋だった。山は薄闇の裾をひいて仄明るい頂きに纔か雪のかつぎ[#「かつぎ」に傍点]をつけていた。子供を呼ぶ母親の声が遠くのほうから聞えてきた。澄んだ空気の中にその声はこだまして長く尾を曳き、いつまでも空に漂うているようだった。
部屋の横手は一段下って湯殿へ通じる渡り廊下になっていた。それだけ低い屋根をかぶっているので、炬燵のところからは時たまそこを通る人の足許が眺められるだけだった。姑が湯へ行っている間、清子はなすこともなく呆やりと、そこへ眼を遣っていた。しぜん、そこへだけ眼がいくのは、何か気羞かしかった。思いがけなく小諸の駅で見た鳩が思い出された。二羽連れ立っていた睦まじさが眼に沁みていた。口笛と一緒に元気な足音がして、下の廊下を茶縞丹前の人が通りすぎた。丹前が短かいのか、着方がぞんざいなのか、湯あがりの真っ赤な毛脛をむき出しに、スリッパからはみ出た足も静脈を浮きたたせて如何にも健康そうだ。清子は火照った気持で聞くともなしに足音を聞いていたが、ふいに叩かれたようにまごついて、姑を迎えに湯殿のほうへ降りて行った。
その夜、久しぶりに清子は良人の夢を見た。亡くなってから初めて見る夢だった。良人は寝癖の、清子の耳たぼを優しくつまぐりながら、もつれたような声で何かくどくどと話しかけた。その長話にいらいらして、夢の中の清子は不機嫌に黙りこんでいた。
霊泉寺の朝は小鳥の声で明ける。淡緑りの背を光らせて飛んでいる鶺鴒がまず眼にふれた。飛びながらツツツ……と啼く。屋根に止まり長い尾で瓦をたたきながらツウン、ツウンとはりあげる。澄んだ美しい声である。水を飲みに池のふちに下りたのも尾でたたきたたき啼いている。池には紅葉の木が枝を張り出して、根かたに篠笹がひとかたまり、明るい陽射しの中に福寿草が含羞《はにか》むようなすがたで咲いていた。
朝食前、清子は姑に添うて散歩に出た。四五軒の湯宿と雑貨や駄菓子などを商う小店と、あとは川を挟んで飛びとびに農家があるばかりだった。山寄りの小高い寺の建物は、ここには似合わぬくらいの宏壮さである。朽ちかけた山門、空洞《うつぼ》のある欅の大樹、苔むした永代常夜燈、その頂きの傘に附してあるシャチも※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]ぎとられたり欠けたりしていた。文政六年の建立とあるが、老常夜燈の貫録は、その全身の深苔にはっきり見られるようだった。「霊泉禅寺」と大きな額が本堂の正面にかかっていた。閉じこめたままで幾日も過ぎているらしい。雨戸の隙間
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング