なく、清子は姑を寝ませた。朝の早い姑のことだし、それにもう十時が過ぎていた。清子は手廻りの品々をズックの鞄に詰めながら、この家も今夜一と晩の名残りかと思うと、床に入りがたい思いがした。古びたこの家の、何がなし手垢の染みたような感じが、哀しかった。
清子は立って外し忘れた柱暦を一枚めくった。それからまた立って行って、玄関にたった一つ残っている白いセトモノの帽子かけにさわってみた。どこにも良人の俤があった。清子はその良人の背を軽くゆすぶって、
「もう、お別れよ、お別れよ」
と促した。良人の俤はやや猫背の、右の怒り肩をじっとしたまんま、いつまでもこの家に執心しているようにみえた。
ふと気づいて清子は床の間の、さっき西尾が置いて行った雑誌を手に取った。何んとなく良人の文章にふれたくない心で頁をめくった。家庭料理や小噺やユーモア小説などの盛り沢山な雑誌である。清子は「栄養漫才」というのを読んで、思わずクスッと笑いかけた。とうとう良人の文章にぶつかったとき、何か構える気がしどきっ[#「どきっ」に傍点]とした。
――今でも忘れられないのは初夏の広島の「白魚のおどり食い」だ。朱塗りの器、といっても丁度小タライといった恰好に出来ている器物だが、この中に白魚を游《およ》がしてある。よく身のいった、どれも三寸は越していようという立派なものだ。赤い器に白魚! 実に美しい対照だ。游いでいるやつをヒョイと摘まむんだが、もちろん箸でだ。なかなか、こいつが掴めない。用意してある柚子の搾り醤油に箸の先きのピチピチするやつをちょいとくぐらして食うんだが、その旨いことったらお話にならない。酢味噌で食っても結構だ。人によってはポチッと黒いあの目玉のところが泥臭くて叶わんというが、あの泥臭い味が乙なのだ。あの味を解さんで「白魚のおどり食い」とは不粋も甚だしい。この他、舌に記憶されているものでは、同じ広島で食った「鯛の生《いき》作り」と出雲名物の「鯉の糸作り」だ。鯛は生きのいい大鯛を一匹ごと食膳に運んでくる。眼の玉にタラリと酒を落すと、俄然鯛の総身が小波立ったように開く。壮観なものだ。生きた鯛に庖丁を入れて刺身につくってあるわけだが、鯛にはまことに気の毒でも、このくらい舌を喜ばす珍味はない。「糸作り」のほうは鯉を糸のように細長く切って、その一本一本に綺麗に鯉の卵をからみつけたものだが、恐ろしく手のこんだ贅沢な珍品だ。
良人の文章はまだ続いて、土佐の「鰹のたたき」のことが、その料理の仕方まで懇切に述べてあるのだった。
読みながら清子は、
「嘘ばっかり、嘘ばっかり」
と見えない良人を詰った。食べもしないくせに嘘ばっかり書いていると肚立たしい気持になったが、しかし不思議に良人の文章から御馳走が脱け出して次ぎつぎと眼前に並び、今にも手を出したい衝動に、清子はつばが出てきて仕方がなかった。
汽車は上野でほとんど満員だった。熊谷の堤は桜が八分咲きで、物売りの屋台が賑やかに並んでいた。けれども碓氷峠にさしかかってからは季節は後ずさりして、山々にも木々にもまだ冬の装いが見られた。時たま、陽向に梅の花が咲いていた。
遺骨と三人の旅だったけれど、姑は哀しいほど浮き立って、ひっきりなしに話しかけ、隣席の学生や前の老爺へ海苔巻を分けてやったり飴玉を勧めたりした。
小用の近い姑のために清子は戸口の側に席をとったのだけれど、開けたてが騒々しくて、うつらうつらも出来なかった。今朝がたの電車の雑沓が思い出された。朝の早い電車に乗ったことのない清子は揉まれもまれて悲鳴をあげながら、ただもう姑を庇うことばかりで一生懸命だった。両手に荷物を持って見送ってくれた西尾も、上衣の肩がずり落ちネクタイのよじれた可笑しな恰好になっていた。身動きの出来ない中で、ふと自分の肩つきの右上りな、癇で突っ張っているような姿に気づいて妙な心地がした。良人にそっくりだった。
姑と老爺の間には蕎麦の話がはずんでいた。小諸が近かった。降りて名物の蕎麦を食べて行かないかなどと老爺は誘った。そして網棚の風呂敷包を下ろし、褪めた二重トンビを着て、駅に着かないうちから別れを告げて立って行った。
蕎麦は二番粉の生蕎麦に限る、滝野川の籔忠か池ノ端の蓮玉庵だと言っていた良人のことが思い出された。
小諸の駅に入った時、隣席の学生は城趾や藤村の碑のある方向を指さして、親切に説明してくれるのだった。
羽音がし、窓へすれすれに、鳩が飛んで行った。眼で追うと線路の砂利の上をあちこちして、忙しげにまた飛び立った。鳩は荷箱の上や荷物置場のコンクリートのところを探しものでもするせっかちさで歩きまわっていた。人夫の肩にチョイと止まって屋根のほうへ飛ぶのもあった。屋根にもたくさんの鳩だった。喉の奥で念仏を唱えているような鳴声で、年功のたっ
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