も愛らしい。けれども嫁いでもう十四年、清子もいつのまにか齢を重ねて三十六になったが、この家にはさっぱり福運らしいものが訪れない。
しかし、良人が達者でいた頃のこの一家には毛筋ほどの不平も不満もなかった。ただ一つの清子の希いといえば、ミシンが欲しいということだった。十年来、良人に買ってもらえるのを待っていた。連れ立って外へ出たときなど、清子はきっと良人を促して街通りのミシン店の前に足を停めた。大きな飾窓の中に、黄色い髪をお下げにした桃色の服の西洋人形と一緒に、黒光りのする幾台かの立派なミシンが並んでいた。夫婦は期待と希望に軽い昂奮をおぼえながら、こそこそと値ぶみをし、長いことその前に立って眺めていたものだった。だんだん清子は自分の望みが大それた望みだったと諦めるようになり、隣家の主婦の卓上ミシンをかけさせてもらっては、十分満足して帰って来るのだった。
姑の髪はむずかしかった。びんたぼをチョッペリと出して、てっぺんに出来合いの小さなマゲをのせるのだったが、この和洋折衷のハイカラ髪は清子が嫁いで来てからの慣わしだった。
「お月さん、うまく隠れたかえ」
姑は大事そうに髪へ手をやり、清子の懐中鏡を持ち上げて頸を延べたり縮めたりして合せ鏡した。薄い髪にかくれた禿の様子を「雲かくれにし夜半の月かな」だと良人がからかってから、姑も清子もお月さんお月さんで通すようになった。
結い上げて油手を洗いに清子が流し元に下りたところへ、西尾がいつものせっかちな恰好で入ってきた。
「どうも遅くなっちまって……荷物は? ああ、あとは僕がやります、やります」
靴を脱ぐなり、そこいらに散らかった荷物に手をかけはじめたが、姑に引き止められて、お茶にした。
「今日もね、社で鈴木君の話が出ましてね、急性肺炎で命を落すなんて似合わない。もう少し、こう気のきいた病気ですね、胃腸に縁故のある……何んとかこう食通らしい往生の仕方がありそうなもんだってね……」
西尾は喉を鳴らして茶を飲み、顎の筋肉をビクビク動かして菓子鉢の落雁を口卑しく平げる。
「これも運だと思ってあきらめているすてえ。なあ、西尾さん、うちの倅あ、あの通り食い意地張ってたもん、あの世さ行っても腹コ痛くなるだけ御馳走食べているこったべしちえ。こんど生れてくるとき、土産コうんと[#「うんと」に傍点]持ってきてもらわねえば、間尺にあわねえすてえ」
茶を注いでやりながら姑はつぶつぶの光った眼で西尾を見あげて笑った。
「そうだとも、おっ母さん。今頃は先生食い放題だな」
西尾は年寄りの顔から眼を逸らして、無暗と茶を飲んでいたが、清子が上ってくると声をかけた。
「奥さん、田舎さ帰ったら当分はお寂しいこってしょうね。なかなか東京が忘れられませんよ」
「何しろこちらが長いんですものね。でも田舎へ帰ると子供相手ですから、まぎれますわ」
「ああ、それじゃ学校のほうお決まりですか」
「助役さんにお願いしてありますから……それに校長先生からも大丈夫だってお手紙いただきましたから」
「あの校長さんは親切だからなあ。僕は、高等科で教わったが……赤髭コって渾名でね、先生よく水っ洟をチカチカ光らせてやって来たもんだ」
小学校時代の話になった。西尾も清子も郷里のその小学校の出身だったけれど、当時の訓導で今もなお残っているのは、その赤髭の老校長だけだった。
「五城目が駄目だったら馬川か飯田川の学校へ頼んでみるつもりでしたけれど……飯田川には、わたしがいた頃の先生方もまだ大抵残っていますよ」
清子は結婚前その飯田川の小学校で代用教員をしていた。
帰郷後の清子の身の振り方については、実家の両親や親戚などがかなり喧ましく干渉するのだったが、清子は姑を守って学校に奉職することに決めていた。孤独な姑を残してどこへ行く気にもなれなかった。
「そうそう、忘れていた、さっき雑誌が出来てきてね」
西尾は上り框の鞄を引き寄せて、印刷油のプンプンする「栄養と家庭」を取り出した。
「鈴木君にもらった原稿が載ってますよ。先々月の二十五日だったから、そうだ、寝つくちょっと前ですね。すると、これが絶筆というわけかな」
パラパラと頁をめくっていたが、ひょいと立つと、床の間の遺骨の前にのせた。
「おっ母さん、この机も貰ってよかったんですね。しめしめ」
西尾は側の机をコツコツと叩いてみたり、抽出しを開けてみたりした。
「ほう、いたずら書きがしてある。……何んだ、幾何の問題か」
「何せ、あれが中学さ入った年、買ってやったもんだから……」
「すると、もう二十六七年もたっていますのね」
清子も覗きに立った。
「気の利いた貉《むじな》コだば化ける頃ですべ」
姑はこんなことを言って、二人を笑わせた。
荷物をくくり、あとは明朝のことにして西尾が帰ってしまうと、程
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