た。カツレツにして食べると結構牛肉の中どころの味が出るという。値が安く鱈腹食べられるというので、なかなかの人気だった。良人の味覚談義がはじまるのはこんなときである。
「鈴木さんのように舌の肥えている人にかかっちゃねえ」
 役所の中で良人は食通として定評があった。聞き手たちは良人の話からまだ知らぬ味わいをいろいろに引き出しては、こっそりと空想の中で舌を楽しませる。
「この頃の牡蠣の旨いことったら、どうです。シュンですな。せんだって松島牡蠣を土産に貰いましてね、どて[#「どて」に傍点]焼にして食べましたよ……」
 誰かのこんな話がきっかけになって、良人の食通ぶりが発揮される。
「牡蠣は何んといっても鳥取の夏牡蠣ですがね。こっちでは夏は禁物にされているが、どうしてどうして鳥取の夏牡蠣ときちゃあ堪らない。シマ牡蠣ともいいますがね、ごく深い海の底の岩にくっ着いている。海女が獲ってきたやつをその場で金槌を振るって殻をわずか叩き割り、刃物を入れて身を出すんだが、こいつが凄く大きい。そうですね、この手のひらぐらいは十分にありますよ。身が大きく厚いところへもってきて実は色艶がいい。こいつの黒いヘラヘラを取ってね、塩水でよく洗って酢でガブリとやるんです。旨い。実に旨い。一と口で? いやあ、とても一と口でなんか食えやしませんよ……」
 身を入れて話すと良人の口調には知らずしらずに国訛りがまじる。
「鮑ですか? 近海ものは御免ですね。まあ沼津あたりのだったら、どうやら我慢もできるですが……、といって、これが沼津で食ったんじゃ味がない。樽に塩漬したのを馬の背に積んで甲府まで運ぶんですよ。富士の裾野をジャンガゴンガ揺られて甲州入りだ。鮑はちょうど食べかげんのこたえられない味ですな。輪島産のも……あの塗物で有名な能登の輪島ですな、あそこの鮑も結構なもんです。鮑の中のお職ですな。外向きは実に堅い。ちょっと歯をあてたぐらいでは、へこまない。ところが噛ってみると実に柔らかなんだ。コリコリと……そのくせ、こいつが舌の上でとろけていく。外柔内剛、いや外剛内柔か。あれが鮑の中の鮑でさ」
 良人の話はだんだん熱をおびてくる。聞き手たちもあれこれと口をはさむ。
「その話で一杯やりたくなった」
 などと番茶を啜ってみせる老人もいる。
 良人の話がはずむ。そして次第に凝っていく。普茶料理が出る。黄檗普茶のその謂われ
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