から入る。黄檗でも殊に天麩羅は良人の得意で、先頃も知人の経営している「栄養と家庭」にも紹介したし、新聞の家庭欄でも述べたことがあった。胡麻油などをつかう並みの天麩羅とちがって黄檗のは古い種油と鼠の糞のようなボトボトの堅いメリケン粉を用いる。この粉を水に溶く段取りになると、良人は手真似で、太い箸で器の向う側からガクガクと引っ掻くような仕草をする。丁寧にかきまわしたのでは粘りが出て、油揚げの特徴のカラリとした出来にならない。黄檗では煮汁も大根おろしも添えない。材料のキノコやエビや果物にはあらかじめ煮味をつけておく。油で揚げて而も油っこくないところに天麩羅の真味がある。どじょうといえば本黒の丸煮、玉子の白味でアクを抜いたわりした[#「わりした」に傍点]でないと食えないという。鶏は去勢した雄の若鶏の鋤焼、鋤金に鶏の脂肪をひいて、肉を焼きながら大根おろしのしたじ[#「したじ」に傍点]で頬張るに限るという。――良人の味覚談はきりがなかった。
しかし、良人の場合はうまいもの屋へ行ったというわけでもなく、板場の通というわけでもなく、諸国の名物を食べ歩いたというのでもない。ただ、話なのである。味覚へ向ける良人の記憶力と想像力は非常なもので、たとえば何処かで聞きかじった話だの雑誌や書物などで眼についたのをいつまでも忘れずにいて、折りにふれ、これに想像の翼を与えるのである。そうした良人の味覚はどこででもくりひろげられる。出勤時の身じろぎも出来ない電車の中で人と人の肩の隙間を流れる窓外の新緑を見遣りながら、ウコギやウルシの若葉のおひたし、山蕗の胡麻よごしを思い描く。それから初風炉の茶湯懐石の次第にまで深入りする。汁、向う付、椀、焼物……と順次に六月の粋を味わいながら、良人の満足感は絶頂に達する。全く不思議な話ではあるが、この混み合った電車の皿数は、青紫蘇は眼にしみるようで、小鱸は蓋を取るとサラリと白い湯気が立つという風で、生きのままあとあとと並べられるのである。
「あなたって変ね。ほんとうに召し上りもしないでお料理のことを御存じだなんて……食べなけあ詰まらないのに」
おかしがる清子へ良人は、
「想像してたほうがよっぽど楽しいよ。どんなものでも食べられるしね」
笑いながら言う。それもそうかも知れないと清子は食通として知られている良人に神秘めいたものを感じて、やはり尊敬していた。
そ
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