の晩、姑《はは》と二人っきりのささやかな夕餉をすませると清子は、納い忘れた手鏡を柱のところに立てて姑の髪を結ってやった。明朝の汽車が早いので、性急な年寄りは今から手廻しをよくしておかないと気が気ではないらしい。姑の髪は手間がとれた。結ってやるのが慣わしになっていたけれど、もう髪が薄くなっているうえに若い頃の髷のたたりで真ん中に大きな禿があるので、みのかもじ[#「みのかもじ」に傍点]を入れて結いあげるのに一と骨だった。七十三の姑にもまだ洒落気があるのか、恰好よく結いあがったときなど合せ鏡をして喜んだ。
「西尾さん遅いことなあ。また酒コで足コとられたかな」
残った荷物の世話をしてくれるという「栄養と家庭」記者の西尾を姑は先程から待っていた。亡夫の友人で、清子たちがこの東京で頼る唯一人の同郷人だった。
「あの棚コの埃《ごみ》よく払っておけせえ」
西尾へ記念に置いて行く本棚のことだった。最近、晩世帯をもつことになった西尾が、すぐとこの家へ移り住むことになっている。長年住み馴染んだこの家を引き上げるのは姑にも清子にも辛いことだけれど、それかといって梁の上の良人の霊が帰らぬ旅路へのぼってしまった今では、いつまで未練を残していても詮ないことだった。
「役場の伊藤さんさ土産コ買うの忘れたべしちえ。さあさ、困った」
誰それへは何々と指を折って数えたてていた姑が、鏡の中ではたと当惑した顔になった。久しぶりで帰る郷里の親類知己へは二十幾個の土産を用意したけれど、さて数えたててみると落した名前も二三あった。それは途中で買うことにしたが、明朝の仕度だの車中の食事のことだので姑はやはり心も落ちつかぬらしい。座席がとれぬときの用意に新聞紙を忘れないようにと注意もした。
「明日の晩は温泉さ入れるえ。足コも何もびっくりするべ」
姑は温泉行を楽しみにしていた。同じレウマチスで難渋していた裏の家王の老主婦が、先年信州の霊泉寺温泉へ湯治に行ってからというものぴったりと痛みがとまったという。その話を聞いていた姑の一生の念願に、全度帰郷の途次寄り道をすることになったのだった。
「足コが軽くなったら、なんぼう楽だべ。もうはあ、極楽だえ」
姑も清子も温泉へ行くのは初めてだった。姑は弾んでいるようにみえる。明日の楽しみをあれこれと話しかける。せっついて、しょっちゅう話しかける。まるで聞き手の清子を取り逃し
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