達磨といった恰好で押し乗せられる。「大胆に! 敏捷に! そして細心に!」というのが良人の、雑沓時の乗車モットーだったが、いつだったか、うかと手ぶらでいて引きもがれそうな目に会ってからというもの、良人はいよいよこのモットーを振りかざし、特に「細心に!」と肚に力をこめて自分に言い聞かせていた。
「今朝なんかね、俺の前にいた学生の胸のとこに納豆の豆がくっついてるんだ。教えてやろうにもどうにも……」
 乗ったが最後身動きが出来ないという。顔を曲げたら曲げっぱなしで運ばれて行く。小男の良人は人の息、それも味嗜汁臭い息を吐きかけられながら達磨になって凝っとしている。
「いっぺん連れてってやりたいよ。殺人的雑沓さ。お前さんなんか袖も何も引きちぎられちまう」
 良人は得意なときには目玉を剥いて右の怒り肩をちょいと聳やかす癖がある。このときも清子は良人の剥き眼を見て、人混みに揉まれているのにこの人は一体何が嬉しいんだろうと、おかしな気がした。
 良人のことで清子が苦労したことと言えば毎朝つめる弁当のお菜《かず》である。いくら塩鮭《しゃけ》が好きだからといっても、そう毎日塩鮭ぜめにするわけにもいかない。惣菜屋から買ってきたものは良人が好まないので清子は前の晩からいろいろと頭を悩ませる。金ピラ牛蒡にしたり、妙り豆腐にしたり、前の晩自分の分をこっそり取りのけておいたコロッケなどを詰めてやったりする。時には良人も役所で饂飩をとって我れと我が身に奢ってやったが、「二杯も食われちゃ間尺に合わない」と饂飩好きな自分の口に厭味を言って、やっぱり塩鮭入りの弁当を持参した。
 この弁当をつかうときが良人にとっての一番の楽しみだった。炭不足の話が出る。酒が手に入らぬ話が出る。菓子を買うのに行列の中に入って一時間以上も立ちん棒をした話が出る。けれども物資不足からくるこの頃の切り詰めた生活の簡易さは、この役所に勤めているほどの人たちには今更こと新しく取り立てるまでもなく、結局、慣れた手頃な暮しなのだった。
 向い側の寄留係りはよく飽きもしないで煮豆を詰めてくる男だったが、女学校へ行っている娘があって、それが弁当の世話をするらしい。思いがけず玉子焼が入っているときなど、風《ふう》のあがらない薄髭をにやにやさせて蓋に一と切れのせて、こっちへも勧めてよこした。食べ物の話がはずんだ。鯨の赤肉の栄養価値を説くものがあっ
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