とつ云えぬお初なのだ。六つの年から母の手ひとつで育てあげられた、その恩義というのを母自身の口から喧ましくきかされてきたお初にとっては何かにつけてこの恩義が※[#「竹かんむり/冊」、第4水準2−83−34]《しがらみ》になっている。これを、つくづくと邪魔だなあ、と思う時があっても、お初には自分から取りのけるということが出来ない。そこで仕方なく我慢して、大ていのことはおっ母さんのなすがままにまかせている。しかし、夜のものの世話までされるのは、お初には何んとしても承知が出来ないのだ。子供の頃、何かの用事で大むらへおっ母さんを訪ねていくと勝手口へ出てくるお倉婆さんというのが、
「お金《きん》さん、お前さんとこのジャベコ[#「ジャベコ」に傍点]が来たよ」と奥へ声をかける。妙なことを云う婆さんだと別に気にもかけずにいたが、ある時、その訳をおっ母さんにきかされてからは婆さんを見るのが厭でならない。東北生れの婆さんは女の子をこんな風に呼び慣れているそうである。呼ばれるたびにお初は身内がむず痒いような熱っぽいいらいらした気分になる。――丁度それによく似た厭な気分をお初はおっ母さんに感じるのである。そうとも知らないおっ母さんは「お初は、まあ、気がねなどをしてさ」などと独り言を云うて揉み手をしながら降りていく。そして、梯子段の下で癖の二階の気配に耳をすますような恰好をしてから、店つづきになっている四畳半の火の気のない長火鉢の前へつくねんと坐って通りの方を眺めているのが例になっている。
今もそんな風に通りをみていたおっ母さんは、欠伸をしながら柱にかかっていた孫の手[#「孫の手」に傍点]をはずして円めた背中へさしこんで、心地よさそうに眼をつむって掻いている。
二
馬淵の爺さんが妾宅を出たのは十一時が打ってからであった。毘沙門前の屋台鮨でとろ[#「とろ」に傍点]を二つ三つつまんで、それで結構散財した気もちになって夜店をひやかしながら帰って行く。電車通りを越えてすぐの左手の家具屋の露地を曲ると虎丸撞球場というのがある。この前まで来ると爺さんは何とはなしに心の緊張を覚えるのが常である。手に持った扇子を帯へさしこみ、衿元のゆるんだのを直したりする。それから懐へたたんで入れておいた手拭いで顔をひと撫ですることを忘れない、つまり、爺さんがためには虎丸撞球場のこの明い軒燈は脱いでおいたいつもの[#「いつもの」に傍点]お面をかぶる合図ともなっているのだ。小半丁ばかり歩いたところに家がある。格子を開けると、足の悪い女中の種が出迎えた。跛をひきひき爺さんのあとから跟いてきて、脱ぎすてた羽織や足袋の類を片付ける。爺さんはちょっとの間気嫌の悪い顔付きでむっつりと黙りこんでいる。よく仕事の上での訪問づかれで戻った時など爺さんはこんな顔をするのである。
「どうも、莫迦に蒸すねえ」
湯帷子に着換えた爺さんは団扇を使いながら内儀さんの病室にあてた奥の六畳へ入っていく。やすんでいるとばかり思った病人は床の上へ坐って薄暗い電球を低く下して針仕事をしている。
「お疲れさまでした」
針の手を休めて内儀さんが徐かに顔をあげた。爺さんが外から戻った時のいつもの挨拶である。ものを云うた拍子に咳こんで、袖口を口へあてたままでいる。明りの加減か、永年の病床生活の衰えが今夜はきわ立ってみえる。下瞼のたるみが増して、なすび色の斑点《しみ》が骨高い頬のあたりに目立っている。咳をするたびにこれが赤ばむ。
「仕事なぞをせんでもいいに……」
爺さんは優しい窘《たしな》めるような調子で云った。
「それがね、あなた、遊んでばかりいると、この指さきが痛んでしようがないんですよ。こうやって、まあ、お針を動かしていると、どうやら痛みも止ったようです」
咳の納ったところで内儀さんはこう云った。そして、脂っ気のないかさかさした指から徐かに指ぬきをはずしながら、「わたしの手は、もう、根っからの働きもんとみえますねえ」と云うて、力のない笑いようをした。
「そうさなあ。俺だって半日も算盤を使わないでいれば妙にこの手が退屈するものなあ。稼ぐに追い付く貧乏なし、ってな、昔の人はうまいことを云うたものさ」
爺さんはこの諺が今の場合あてはまっているとは思わないが、どうもほかにうまいことも思い付かないので、これをちょっとの間に合せにした。爺さんが渡仙《わたせん》(羽後の名立たる高利貸の渡辺仙蔵)の手代をしていた頃、大番頭の丸尾さんというのが大そう主人の気にいりで、下《しも》の者にも受けがよい。下《しも》の者が何かの粗忽をした時などは頭ごなしに呶鳴りつけるようなことをせず、一同揃うて御膳を頂いている折りなどに諺を混えたりしてそれとなく意見をされる。こまごまと云われたことは忘れてもその折り折りの諺だけが妙に残る。馬淵は
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