いつもこれに感心していた。そして丸尾さんを倣う心がいつの間にか爺さんの内には根になっていて、その頃から頭に残っている二つ三つを何かというて使ってみたいのである。
爺さんは内儀さんに問うた。
「何を縫うているのだい?」
「小村さんから届いていた袷が余りおくれていますのでねえ」
「なあに、袷には当分間があるんだし、そんなにつめて[#「つめて」に傍点]しちゃあ躯にさわらあな」
団扇の風を爺さんは優しく内儀さんの方へ送った。小村さんというのはすぐ裏手の、馬淵の持家に入っている後家さんで、これがお針の師匠をするかたわら御近所の賃仕事をひきうけている。そのうちの二三枚を馬淵の内儀さんが分けてもらって小遣い銭の足し前にしていた。若い頃、賃仕事に追われがちだった内儀さんの指さきが今もその仕来りからお針が離せないのである。「何もよそのお仕事までなさらずともよい御身分ですのに」と、時たま裏の後家さんが探ぐるように云うたりすれば、内儀さんは愛想笑いをみせながら、「ほんの退屈しのぎでございますよ」と云うのがおきまりになっている。しかし、心の中では、「こんな手だって、あなた、動かしていさえすればお宝になりますもの。遊ばせておいたのでは、つまりませんからねえ」と、こんなことを云うている。
根がしまつ屋の爺さんには内儀さんのここんところが大いに気にいっている。お初などには真似の出来るこっちゃない。何んというても、うちの内儀さんだわい。――こう満足した爺さんの心が今も団扇持つ手へ働いて、つい内儀さんを煽いでやることになったのである。
枕元に置いてある猪を型どった蚊遣の土器《かわらけ》から青い烟りの断え断えになっているのをみて内儀さんが種を呼んだ。
「いやあ、もう、遅いからやすむとしよう」
爺さんはこう云って蚊遣の土器をひき寄せて渦のまま灰になっている分を払い落して、残った小さいのに蛍のような火の付いているのを「あっちちち」と云いながら指の腹で揉み消している。無駄事の嫌いな爺さんは、こうしておけば気がせいせいするのだ。
「それでは、おやすみといたしましょう」
と、内儀さんはそこへきた種の手をかりて手水へ立った。廊下を軽く咳こみながらゆるゆると歩んでいくうしろ姿がどこやら影が薄い。爺さんはそれを見送りながら「内儀さんも永いことはないなあ」と不憫になってきた。一生一度の思い出に、紋付の羽織を着て上方見物に行ってみたい、と口癖のように云うていたが、それをはたしてやらなかった自分が少々うしろめたい気もする。だがまあ、おとむらい[#「おとむらい」に傍点]にいくらか金をかけてやれば、それで気がすむというものだ。爺さんは背中へ団扇の手をまわしてぱたぱたと喧しく蚊を追い払った。
手水から戻ってきた内儀さんが思い出したように爺さんをみて云った。
「そうそう、あなたのお出かけのあとへ安さんがおみえんなりましてね」
山吹町通りへ唐物店を出している爺さんの弟の安三郎のことである。
「ふむ、何んで安がまた来たんだい」
爺さんは気のなさそうな顔で問うた。安さんの来たのを余り悦ばないようである。
「太七さんのことをお話なさってでした」
枕のところの小さい黄楊の櫛を取って内儀さんは薄い髪を梳している。その眼が窺うようにちら、と爺さんをみた。
安さんの次男坊で商業の二年生になる太七を馬淵家の養子にしてはくれまいか、とこの頃では当の安さんがそれを頼みに何辺か足をはこんでいる。あと取りがいないでは寂しかろう、と内儀さんを唆かし、どうせ養子を取るなら血のつながっているものの方が親身になれるから、と爺さんを口説いているのだった。それを爺さんはいつもよい加減に聞き流しにしている。自分の不遇時代にせっぱつまった揚句の三十両の無心を安がどんなそっけなさで断ったか。――爺さんはその時のことを思うと肚が煮え立つのである。当時、京橋の方で手広く唐物の卸し問屋をしていた安さんは、生憎遊んでいる金が無いから、と云うてこの無心を突っぱねたのだった。それが今おちぶれて、身上をあげた爺さんへ縋りついてくる。爺さんの面白くないのも無理がない。
「何んぼ、安が来たって、太七の話は駄目だ」
爺さんはそっけなく云い放った。それを聞いて内儀さんは「爺さんは、まあ何んて頑固なのだろう」と思うのだが、ほんとうはそれ程爺さんを批難する気もちも起らない。息子を養子にしたい安さんの下心が内儀さんにもうすうす分っていて、これを爺さん同様うとましく思っているからである。
爺さんに子供を貰ってはくれまいか、という親類はこのほかにもある。爺さんの兄《あに》さんにあたる郷里の小学校長と内儀さんの従弟の代書屋である。この校長さんの方などは、爺さんが渡仙の手代をしていた頃は、高利貸しの弟はもたれぬ、などというて家へも寄せつけず、そ
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