もあたるまい、と爺さんは独りで勝手な理窟をつけて、その実はつけ[#「つけ」に傍点]の嵩んでくるのが怖さにめったに妾宅では御膳を食べることをしない。
「いや、茶の熱いやつを貰いましょう」
「はいね」
と気軽にうけておっ母さんが梯子段を降りかけたところへお初のらしい小刻みな日和の音が店の三和土へ入ってきた。
「お帰りかい。旦那がお待ちなんだよ」
それだけを地声で云うて、あとは梯子段の下でおっ母さんが何やら内証話をきかせているらしい。「まあ」だの「そうお」だのと声を殺したお初の合槌が二階まできこえてくる。やがて、湯道具の入った小籠を左手に抱え、右手に円い金魚鉢を持ったお初が、
「あら、父うさん、しばらく」
と、のぼりきらないうちから声をかけてきた。
「莫迦にゆっくりだったじゃあないか」
腕をまくりあげて爺さんは鷹揚に団扇を使っている。
「いえね、お湯《ぶ》は疾っくにすんだのですけど、丁度おもてを金魚屋が通ったものですからぐずぐずしてしまって。どお、父うさん、奇麗でしょう」
お初は立ったなり金魚鉢を爺さんの眼の高さにつるした。
「つまらんものを買うてきて。無駄づかいをしちゃあいかんぜ」
爺さんはお初の手から金魚鉢を取って窓枠へ置いた。緋色の長い尾鰭をゆさゆさ動かして二匹の金魚が狭い鉢の中を硝子にぶつかってはあともどりをする泳ぎをくりかえしている。
「無駄づかいどころか、この頃は髪結いさんへ行くのだって四日に一度の倹約ぶりよ。ねえ、父うさん、こないだからおいでを待っていたんですけど、博多を一本買うて頂きたいわ」
金魚をみていた爺さんの眼が鏡台をひき寄せて派手な藍絞りの湯帷子の衿元を寛げて牡丹刷毛をつかっているお初の方へと移っていった。
「また、おねだりかい」
こう口先きだけは窘《たしな》めるように云うても眼は笑ってお初のぼってりとして胸もとの汗ばんだ膚《はだえ》をこっそりと愉しんでいる。
「ねえ、父うさん、いいでしょう。お宝頂かせてよ」
お初は鬢へ櫛をいれながら鏡の中の爺さんをのぞきこんでいる。
「何んだ、銭かい? まあ、帰りしなでもいいやな」
「いいえ、父うさんは忘れっぽいから今すぐでなければ厭よ」
髪を直し了ったお初はちり紙で櫛を拭きながら爺さんをみてこう急きたてた。
お初がこんなにせっつく金をせびるには、子供の頃おっ母さんに欲しいものをおねだりした時の癖が出てきているのである。
その頃、おっ母さんは向島の待合大むらというのに仲居をつとめていてお初を花川戸の親類の家にあずけておいた。観音様へ月詣りをしていたので、そのたびに花川戸へ寄ってお初をつれ出してはお詣りをすませて仲見世をぶらつくのが慣しになっている。仲見世にはお初の欲しいものが沢山ある。絵草紙屋の前にしゃがんで動かないこともある。大正琴にきき惚れている人だかりへまぎれこんで、おっ母さんを見失ったこともある。「何んか買うてよう」とねだれば、決り文句のように「また、あとでねえ」と宥められる。その「あとで」をあて[#「あて」に傍点]にして次のお詣りに早速ねだると約束をけろりと忘れたおっ母さんは「また、あとでねえ」と宥めるように言うのである。そこでお初はしつっこくねだるようになる。人形屋の前でおっ母さんの袂へしがみついて離れないようになる。これにはおっ母さんも呆れたように笑って、渋りながらも帯の間から青皮の小さなガマ口を出して人形を買うてくれるのである。――
初めのうちは云い出し難かった爺さんへの無心も、いつの間にか子供の頃の慣しで容易になり、爺さんの方でも、つい負けて出してしまうという具合である。
爺さんに貰った幣《さつ》を帯の間へ挟んで鏡台の前を立ったお初は梯子段のところまで行って、
「おっ母さん、お茶はまだですか」と呼ばわった。その声に釣られたようにおっ母さんが茶盆へ玉子煎餅の入った鉢と茶道具をのせて上ってきた。
「どうぞ、御ゆるりと」
敷居のところへ片手をついてこう辞儀をすると梯子段の降り口の唐紙をぴたりと閉めて下った。
おっ母さんの物腰には大むらの仲居をしていた頃の仕来りがぬけない。お初たちが茶のみ話をしているうちに、よく隣りの間へ夜のものをのべることがある。それをお初がむきになって停めたりすれば、解《げ》せない顔付きで「どうせ、遊んでいるんだのに……」と云うて、手持ち無沙汰げに渋々と下っていく。母のそつ[#「そつ」に傍点]のなさをみせられるたびにお初は自分を恥じて顔を赧める。おっ母さんは自分を何んだと思っているのだろう。――恥じの中でこんな肚立たしい気もちにもなる。母のとり扱いをみていると自分は全で安待合へ招ばれたみずてん[#「みずてん」に傍点]芸者という按配である。お初には母のそつのなさがどうにも我慢がならない。そのくせ面と向っては愚痴ひ
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