さんが思い悩んでいるのは、安さんの次男坊か従弟の倅かである。種に云われてみれば、どうも金壺眼の太七を貰う気もしないので、やはり思いは代書屋の倅の方へ走るのである。早く養子を決めておかないことには自分の死んだあとへお初にでも乗りこまれて、この家を我がもの顔にされたのでは間尺にあわない。内儀さんの思案はこれにかかっている。そうとも知らない種は内儀さんの口を信じこんでいる。その内、旦那から更めてこの話が切り出されるだろう。種は待つ気もちでいる。養女になれば、やがてこの家のものを受け継ぐことになる。――こんな思惑が日毎に募ってくるにつれて、種はこの家の娘になった気もちになってくる。そして、馬淵の家のお宝へ執着する心からだんだん爺さんに倣って嗇くなり、内職の稼ぎ高を一銭でも余計にあげようとはげんだ。
内儀さんからお初の話を滅多に聞くことのない種は、何かの急用で袋町へ爺さんを呼びにやらされる時はへんにお初へこだわって、内儀さんへ気兼ねをすることがある。使いから戻っても内儀さんは何んにもきかない。いつもの穏やかな顔でやすんでいることもあれば、床へ坐って針を動かしていることもある。ただ、そんな時の内儀さんは妙に気力のぬけた鈍った表情をしていて、種が何か話しかけても億劫そうに頷く位である。
種の前でもお初へは触れることのすくない内儀さんは、爺さんの前では余計に口を噤もうとするところがみえる。時たま、爺さんが何かのはずみでお初の名を口に出すことがあっても内儀さんは素直な顔で頷いているだけだ。これまで、さんざお初のことで思い悩んできた内儀さんにとっては、お初は、もう今では諦めの淵の遠い石ころになっている。
春の終りに近い或る日暮れ時にこんなことがあった。
晩御飯をすませた爺さんはもう袋町へ出かけている。うす陽の残っている縁の障子に向って床の上の内儀さんは針を動かしている。後かたづけのすんだ種がその傍に小さい茶ぶ台をすえて、竹べらでせっせと内職のかん[#「かん」に傍点]袋を貼っている。ふと、内儀さんが針の手を停めて、じっと何かに視入っているような気配を感じて種は目をあげた。障子の裏側を一匹の毛虫が匍いのぼっていく。内儀さんの眼はそれに吸い寄せられている。小指程の大きさの黒い体をうねうねさせて、みている間に二つの桟をのぼった。黒い硬い毛が障子にふれてカサカサというような微かな音をたて
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