と廊下を指さしてみせる。
おしもは畏まって、丸々と肥えた膝頭をついて、大きな乳房をゆさぶりながら熱中して拭きにかかる。そんな動作をくりかえさせながら、夫人の眼ざしは執拗におしもの体を離れない。どこまで、この妬心に耐え得られるかと、まるで、自分を試しているようである。
おしもは多分に神経の間のびた呆んやり者で、ただ、主人大事に豆々しく働いているのが取り得の女であった。一昨年世話する人があって福島在から奉公に上ったのだが、土臭い山だしの小娘も、今では、どうやら作法というようなことを一通り身につけて、客の前へ出されても恥をかかないまでになった。始終ニコニコと笑っているのが癖で、どんなに忙しく動きまわっている時でも、また、何かの粗相で叱られている時でも、このニコニコ顔をはなしたことがない。
「おしもの顔は年中お祭を見ているようだね」
よく、こう云うて夫人は揶揄《からか》うのだった。切角、茶の間へ呼びつけて意見をしている時でも、このニコニコ顔を見ていると、ものを云う張り合いを失くしてしまう。まるで、三ツ児を相手にしているようだ、と夫人もつられて笑ってしまうのだった。
「おしもは呆んやりだからね、お春のすることを、ようく見習わなければいけないよ」
折りにふれて夫人はこう云い含めるのだったが、その実、巻紙を、といえば、切手を貼りつけた封筒まで添えて差し出すお春の抜かりのなさよりも、始終粗相をくりかえしては無駄骨を折っているおしもの方へ、妙に愛情が片寄っていく。そして、古くからいるお春よりも、夫人の信用はおしもに篤いのだった。
その夫人の気心をうすうす感付いているおしもは、自分にかけられた信用を地に堕すまいとする心から一そう呆んやりを固執するようになった。この呆んやりが自分の取り得だと知っている。そして、適度の粗相をくりかえす。箸と命じられれば茶碗を、下駄と言付けられれば、草履を揃えておくという風である。この呆んやりが家人の眼には愛嬌に見える。唐沢氏などは、
「滑稽な奴だ」
と腹をかかえて笑う時があった。
ものを云う時、舌をちょろつかせて甘えるようにするおしもの顔がいかにも子供子供していて可愛く、つい、それにほだされた夫人は、時折り、お春に隠してこっそりと帯〆だの半襟のような小物を買うてやるのだったが、いつからか、この内証事が娯しみになって、買物といえばおしもを供
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