。先生自慢の輪の大きなコスモスだった。それが垣根のぐるりにゆさゆさ揺れていた。子供の頭がかくれてしまうほど背の高いコスモスだった。
父親の都合でぎんは校長先生の所から暇をもらい、酒屋の小女中にやられた。町に「ガラ八の内儀《じゃっちゃ》」という看護婦や女工や女中などの口入れを商売にしている寡婦がいた。十六の春、ぎんは近在の娘たちといっしょにこの「内儀《じゃっちゃ》」に連れられて大阪へ出た。紡績の女工になった。同じ町から出てきた友だちに誘われるまま一年半ばかりの後、レースの工場へかわった。そこで十二年あまり働いた。
大正の初め創業したこの工場は、当時輸入した二台の機械でどうやら覚束ない歩みをつづけてきたが、次第に活況を呈して、ぎんが退くころは工場の建て増しをしている最中だった。普通、服地とか袖口とか裾よけとかになるレース地は、絹物、ジョーゼット、木綿、人絹などいろいろあって、機械にかける前、十ヤールに縫合せる。機械済みのを仕上げのミシン場へまわして、あとは晒しに出す。ぎんは入りたてミシン場で働いた。それから機械場へまわされた。一台に二人、裏と表につくのである。糸の切れ、針の折れを視て歩
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