仰言いましても、別に……ああ、そう、このスリッパ、お寿女さんが刺繍してくれましたんですけれど」
 龍子は、爪さきかけたままのスリッパを、ちょっと、もちあげてみせた。
「あっ!」というような小さな声が、師匠の口を洩れた。
 それは、緑色の綸子の地に、白ひといろの蘭花を繍したものであった。
 師匠は眼を凝らして眺めた。龍子が脱いだスリッパを膝にとって視入った。ながい間視入っていた。白い花についている埃りを指のはら[#「はら」に傍点]でそうっとはらった。そして、面《おも》をそむけて、ながいこと、黙していた。
「これを、わたくしにお譲り下さらんでしょうか」
 不意に、師匠がこう切り出したので、龍子はびくっとした。声音は徐かだったが、真正面に向けたその眼は意外に烈しく、龍子は、射られる気がして、うろたえ、けれども何気ないふうに逸らした。この師匠の、これ程までの執心が、龍子には訝かられた。と、ふと、この師匠の執心が、龍子の心を衝いてきた。急に、龍子は、このスリッパに愛着をもち出した。いまは、師匠の所有となった小枠の刺繍に、はげしい執着をもった。
「お譲り下さらんでしょうか」
 師匠は重ねて言った。
「これだけは、お寿女さんの折角の心づくしなのですから……」
 龍子は、にこやかに、素早い偸み見をしながら言った。
「鳥の刺繍も、あたくし頂けるものとばかり思っていましたけれど、あれは、ほんとうによい記念になりましたのに……」
 暗に、自分の所有に帰したい心を言ったのだけれど、師匠はききつけぬ容子で、やがて、言葉尠なに辞し去った。
「お寿女さんは妙だね。あの爺さんにだけは会いたいと言って、せがんだそうだがね。はあ、あの人が、ねえ」
 と、中尾は、再び感じ入った。
「仲々、がっちりしてる爺さんよ」
 と言って、龍子は口惜しそうな顔をむき出しにみせた。
 好物の天麩羅蕎麦が届くと、中尾は、浮きうきして喋り続けた。
「お寿女さんも、なんだねえ、二十八やそこらで死ぬなんて可哀相なもんだが、これも寿命とあればねえ。そうそう、看護婦が言ってたっけが、病院に運び込まれた時は意識がまだ判っきりしててね、自分が死んだら直ぐ火葬《やい》て呉れ、誰れにも知らせないで、直ぐ火葬《やい》て呉れ、って、うるさく頼んだそうだが……そうそう、それからね、なんでも、髪を結って呉れ、って随分せがんだそうだがね。矢っ張り、女の子だねえ」
 龍子は横を向いて、涙ぐんでいた。
 丼をかたげて、ずるずると音をたてて汁を啜りきってしまうと中尾は、手の甲で口のはたを拭いながら言った。
「二口あるんですがね。百五十円と二百円ですが、どうも、二百円のほうは、三文役者の当《あて》なしなんでねえ」
「それあ、駄目よ」
 と、龍子は撥ねた。
「それから、河合がまた百円都合してくれって言うんですがね。もっとも、前のきまり[#「きまり」に傍点]は持ってきました」
 中尾は、内かくしから状袋をとり出して、利子の勘定をはじめた。金の話し合いになると、この男は、言葉つきまで改たまる。
 二人は、算盤をはじいたりしながら、しばらく、貸金の話しをした。
 日がすぎて、龍子は、弟子たちの前で折りにふれ寿女の遺品のことを話した。自分に遺されたものの貧しさを話した。弟子たちは、あんなに目をかけていた先生のところに、遺品の無いのはお気の毒だと話しあった。そして、いつか贈られた刺繍のスリッパや半襟やクッションなどを、それぞれ龍子の手に返した。

 寿女さんの百ヶ日がきて、わたくしは、加福の師匠宅のささやかな法要の席につらなった。
 師匠のはからいで、この集りは、寿女さんの数寄屋町在住の折りの繍によって結ばれた縁故にたよって、葛岡連之助氏、それに、銀三、俊男、この少年は、寿女さんが師匠の許をひく数日前に弟子入りしたのだから、もう五年余りからになる。それと新顔の彦松という年少の内弟子と、わたくしの、都合六人の集りであった。
 読経が終わって、食事を済ませると、やがて、坊さんは帰って行った。座にはだんだん寛ぎが出て、お茶にうつる頃から、どうやら話もはずんできた。
「葛岡さん、この頃は学校のほうにも教えておいでのようですが、ずいぶんとお忙しいでしょうな」と、銀三が訊いた。
「いやあ、貧乏暇無しでして」
 と、葛岡氏は鷹揚に笑って、「学校の刺繍科なんてものは、いまのところ、ほんの附け足しで、設備といってもまだまだ貧弱極まるものですし、教えるのに大骨ですよ。遠藤さんの勧めもありましてね、こんど、教授所のようなものの設置を考慮中なんですが、刺繍道に何等か貢献出来るという意味から言っても、ひと奮発しようと思っています」
 葛岡氏の話し振りは、ゆったりと余裕をもたせて、いささか訓示的でもある。
 黒の紋服に袴をつけて端然と坐っている姿は、如何にも美術学院刺繍科講師、刺繍組合理事の肩書に似合わしいけれども、その生活は、このりゅう[#「りゅう」に傍点]とした構えほどでもなく、噂にきくと、伝通院近くの、まだ路地奥住いで、帯安あたりの店《たな》仕事に精を出しては、どうやら凌げるほどだということであった。その帯安の番頭の娘を娶っているときいているが、若年にかかわらずその処世の才は業界でも目ぼしいもので、この葛岡氏なら、刺繍塾の経営の才腕も相当であろうと、わたくしには肯けた。
 銀三は手まめに茶を注ぎまわり菓子を勧める。葛岡氏が厠へ立つのにも跟いて行って、手水をかけてやったりする。
 話しが、いつか、故人のことになった。
 今は額になって師匠のうしろにかかっている鷹の刺繍を、弟子たちは口々に賞め讃えた。師匠も振り返って、しみじみと眺められた。
「尾久へ行ってから葉書を寄越してくれたことがあったが、……どうも、段々出ぎらいになったらしい」
 師匠は、いつもの静かな声で、こう言われた。そして、眼鏡の具合をなおして、また、額に視入った。
「いつだったか、……そうそう、この春のお彼岸のお中日の日でしたよ。お宅で、おはぎ[#「おはぎ」に傍点]を御馳走になったのを覚えていますから」
 と、俊男が葛岡氏へ遠慮深く斯う前おきをして話し出した。「お宅へ届け物がすんで、あそこの路地を出たところで寿女さんに会ったんです。あんまり偶然だったもんですから、僕はホウって大きな声を出してしまったんです。寿女さんは、せかせかしてすぐに逃げそうにしたんで、僕は、どうしたんですか、って追っかけたんですが、そこまで用達にきたとか何んとか言って、寿女さんはとっとと行ってしまいました。あんなに小っちゃくっても、歩くの随分疾いんですね。せむしの早足っていうけど……」
 と、言いかけて口を噤んだ。彦松が笑いかけて、併し、見廻わして直ぐに抑えた。
「わたしも、伝通院の前通りで見かけたことがありましたがね」
 と、葛岡氏が言った。「去年の暮でしたかね。家内が、どうもそうじゃないか、って言うもんですからね。いや、家内には聞かせてあったんです。それが、声をかけようにも、どうにも、隠れてしまったもんで……」
 葛岡氏は笑《え》みを湛えた。「元々、人みしりをするようなたち[#「たち」に傍点]でしたからねえ。それにしても、寿女さん、あの辺に知り合いでもあったんでしょうかねえ」
 師匠も銀三も黙している。
 いっ時、みんなは、黙していた。
 葛岡氏は、銀三があたらしく淹れた茶を啜りすすり、話をそらした。
「昨日、蓼川家の売り立てがありましてね。わたしも、いつもと違って早くから出かけてみましたが、流石は蓼川家で、それは豪華なものでしたよ。殊に、お師匠さんの『山茶図』はカタログに出ていただけで、わたし共はもう喉から手が出るくらいなんですからね。見物をみると、想像以上のものでしたよ。入札して開けてみたところが、みんな欲しかったとみえて七千円以下はありませんでしたよ。七千円から八千円位の間でしてね、結局、八千二百円の人に落ちました。あれを最後に廻わしたところなど、向うの人もなかなか熟《な》れたもんですよ。あのカタログは唐雅堂で刷ったんだそうですが、調子が特によかったらしく、唐雅堂のおやじも鼻[#「鼻」に傍点]にしていましたが、どうも、あのカタログにプレミアムがつきそうなんでしてね、今朝《けさ》も、はしり[#「はしり」に傍点]の書画屋が二人も朝食前に来たんで、何かと思ったら、ぜひ、余分があったら実費で分けてもらいたいってね。大したもんですよ」
 蓼川家の売り立ての広告は、わたくしも先頃の新聞紙上で知っていた。この華族の売り立てカタログは数年前わたくしも見たことがあるけれど、仲々の豪華版だったと憶えている。このカタログでさえもが、好事家の手から手へ高値にさばかれるというようなことをきいて、わたくしは稀らしく思ったのであった。
 葛岡氏は続けた。売り立て品の数々を挙げ、師匠の「山茶図」が八千二百円では廉《やす》すぎる、と頻りに言った。
 師匠は黙ってきいて居られた。稍うつむきのその面には哀しげな苦笑がみえていた。
 葛岡氏は茶を啜り、なおも、話しつづけた。

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追記 「曼荼羅繍帳」については主として明石染人氏著「染織文様史の研究」を参考とした。
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[#地から1字上げ](昭和十四年七月)



底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「改造」
   1939(昭和14)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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