※[#「やまいだれ+句」、第4水準2−81−44]女抄録
矢田津世子
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《》:ルビ
(例)大和《やまと》
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(例)尚|椋部秦久麻《くらべのはたのくま》
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(例)※[#「やまいだれ+句」、第4水準2−81−44]
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先き頃、京阪方面の古刹めぐりから戻られた柳井先生の旅がたりのうちに、大和《やまと》中宮寺の「天寿国曼荼羅」のおはなしがあった。わたくしは不幸にして未だに中宮寺をおとなう折にはめぐまれぬけれども、その曼荼羅繍帳にふれては、これまでも幾たびか人にもきかされ書物でも読んだ憶えがあるので、先生のおはなしにはひとしお惹かれるものがあった。
現存する繍帳は片々たる小断欠を接ぎあわせたわずか方三尺たらずの小裂ゆえ一見すぐさまこれをもって一丈六尺四方の原形を想像することは難いけれども、しずかにこれへ眸をおくと華麗善美をつくしたそのかみの大繍帳が不思議に目のあたりくりひろげられて、想いはいつしか推古の大観へ至ると言われる。
繍帳はもと法隆寺の宝蔵の奥ふかく納まわれてあったが、のち、中宮寺にうつされ文永年間信如尼によって修補が行われた。当時すでに繍糸の落脱したところもあって亀甲にしるされた繍文の解読に苦心をはらうほどだったが、まだその原形をそこなうまでには至らなかった、併し、徳川中紀の頃には已に今日みるような小断欠になってしまっていた。繍帳原形は中央に浄土変相をあらわし、瑞雲、霊鳥、霊樹、雲形、花鳥、人物、鬼形、仏像などを、周りに大銭のような亀甲が一百ばかりつらなり、一甲に四字あて、すべてで四百字、この繍文によって繍帳製作の由来をあらわしたと言われる。なお、先生はその製作のゆえをこんなふうに釈かれる。推古天皇の三十年二月二十二日に聖徳太子が薨去《こうきょ》あらせられたので、妃の橘大女郎哀傷追慕のおもいやるかたなく、勅を請うて太子が日ごろ説かれ給うた天寿国のもようを図がらにあらわしてそこに太子御往生の容子をみられんことを念じられた。天皇はその哀情を深く思召され勅諚をもって繍帳を二張つくらしめ給うた、その下絵には絵師の東漢末賢《やまとのあやのまつけん》、高麗加世溢《こまのかせい》、漢奴加己利《あやのぬかこり》を、尚|椋部秦久麻《くらべのはたのくま》をその令者として諸采女たちに繍を命じ給うた。このことは、ずっと以前、知人宅で手にしたことのある天保十二年版の観古雑帖にもみえていたような記憶がある。ここに繍をなした采女たちとは、後宮に近習し上の寵を蒙った婦人たちをさしているのであろう。その下絵をかいた絵師はいずれも一世の逸材として伝わっているけれども、直接の工作者である采女たちは、その名すら遺っておらぬときく。
わたくしは尚二三書物を繙いてみたが、どこにも采女たちの名は見出されなかった。
先生は染織文様のみちに明くいられるので現存の繍帳断裂の生地や繍糸についての考察にはとりわけ詳しいお話があった。断裂の生地は仔細にこれをしらべると凡そ綾織、絹縮《しじら》ふうの羅、平織、文羅などであって、このうち紫綾、絹縮ふうの羅の部分が最も多く、色めは濃淡多少の差はあるけれども紫地が大部をしめている。この絹縮ふうの羅について、先生は種々の方面から考証されていられたが、当時これが台ぎれに使用されたというよりは後世になって大破を修補したおり用いた生地だとみていられる。飛鳥天平のころには、このような生地の類例がなく、これが現存する断裂の大部をしめているとみるとき、飛鳥時代本来の分は余程縮少される。繍法は平ざし、まといつきざし、まといざし、からみ繍などで、色糸のとりあわせは巧妙をきわめ、紫の地に黄、紅、臙脂、紫、藍、緑を主調とする繍が施されて、その彩色の華麗は例えようもない。繍帳下部のほうに、法隆寺金堂や玉虫厨子を思わせる様式の鐘楼があって、この中に緑の衣に紅い袈裟をつけた僧侶がいる。両の手に撞木をもって、いまにも鐘をつかんとする姿態を繍した僅か三寸にみたぬ図ではあるけれども、凝っと眸をさだめると、この僧侶の生動しているさまが見える。――先生のこの言葉からわたくしは、さながらその場にある心地して、微妙に生動している僧侶の姿が目まえにありありと見えるようであった。わたくしの心はまた先生の眼を藉りて、いまは繍糸も落ちて黄褐変した台ぎれのみえているところや、下絵の墨絵の線がまざまざとみえているあたりの断裂を前にして、過ぎ来し方を偲び今さらのように飛鳥芸術の豪華をながめる。ふと、この繍帳の中から読経の声がつぶつぶときこえて、ただ、ひたむきに繍の針をはこんでいる采女たちの姿が浮んでくる。亡き太子の御遺徳をしのびまつり、ただ一途な思慕と信仰のその念いばかりが繍帳に籠っているとみえた。
先生の語るところに深くこころ動かされてわたくしは、せめて上野の博物館へいって話しにきいていた「無量寿経」をなり見たいものと或る朝ふと思い立った。この経文一巻は文字を刺繍とし浄土のさまを口絵に描いて極彩色を施したものだときいている。「天寿国曼荼羅」に倣って後世仏像経巻等を繍することが行われ技のほうも次第に巧妙となったということは想像に難くないが、現存のものでは右の経文の他に山科勧修寺の繍仏、近江宝厳寺蔵の国宝「刺繍普賢十羅刹女図」の額、「弥陀三尊来迎図」の額など精巧のわざを示したものときいている。なお最近読んだ書物の中に「菅原直之助、独習をもって刺繍に長じたる人にして狩野芳崖の『悲母観音』の繍は原画の傑出せると共に有名なり」とあるけれども、これが何処に蔵されているかは明らかにされて居ない。
省線をうぐいすだにで降りて、徳川御霊屋の塀に沿うて樹木の鬱蒼と覆いかぶさっている径を博物館へと取った。暦のうえではもう秋立つ日も疾うにすぎているけれども、暑さはいよいよ加わって木の間を洩れる陽射しにも背《せな》をやかれるよう、人どおりのまったく絶えたこの径には蝉しぐれが降りしきって聾するばかりのかしましさのゆえか辺りの寂けさがひとしお澄んで感じとられる。蝉取りの子供たちに行き会うただけであった。
博物館の門前に辿りついてわたくしは躊躇し訝った。砂利はこびの人夫たちの出入りがしげくて辺りの様子がなにかざわついている。門衛のはなしに、このほど新館が落成したので今は陳列品をそちらへ移しかえるため休館になっているということであった。
「十一月迄の御辛抱ですな。その代り今度は立派なところで御覧になれます。ほれ、あそこにみえるのが……」
老門衛は番所を出てきて眼を皺めて、指先きに挟んだチビた莨で樹間の白い巨大な建物をさした。
「天寿国繍帳」の造製に与かった絵師たちは推古天皇の十二年帰化画師保護のため定められた黄書画師《きぶみのえし》ならびに山背画師に属する人びととしてものの本にみえている。末賢は大和に住し東漢《やまとのあや》に属した帰化漢人であり、奴加己利も亦、そして加西溢は帰化高勾麗人であった。それゆえ我国最初のこの繍帳には支那高勾麗両系の絵があらわされているわけである。刺繍芸術には、その後、次第に日本人独特の趣が加えられて戦国時代には兵具にさえ繍をほどこすようになり、元禄の頃に至って最も洗練され、徳川時代にはこの繍の多少によって武家の格式の高下をはかるというまでに用いられた。
西洋のほうでもまた旧約書にアーロンの帯が紅青紫の刺繍された美しい麻布であったとみえているから、ずいぶんと早くからその技に熟していたようである。のちにはアングロサクソン寺院の僧衣が見事に繍されたとも伝わっている。「マティルド女王の壁掛」とは、よく耳にするけれど、これはローマネスク時代の遺品中最も珍奇なものとして今日仏蘭西ノルマンディのバイユー・カテドラルに蔵されているときく。ノルマンディ公ウイリヤムの英吉利征服に材を取りマティルド女王の手工として、また十一世紀末の華麗な繍織として遺っていると聞いているが、「これ迄の織物や刺繍はすべて東方から供給されしものにしてこの時代に至って毛織に刺繍せる美しき工作ヨーロッパに於ても初められたり」と古い美術雑誌などにも記されてあるから、西方諸国の繍におけるその技の発達は疾くから東方に負うところがあったとみられる。
わたくしは樹蔭を足にまかせて歩きながら急に背の汗をおぼえた。東照宮をすぎて樹枝の小暗いまでに繁りあった径をおりて、池の端に出た。見渡すかぎりの蓮であった。葉と葉が重なりあうほどに混んでいて繁茂しているというにふさわしく、白と淡紅の大輪の花がみえかくれしていた。縁に近く、ちょうど蓮の葉でかこいをされたぐあいの一坪ばかりの水の面《も》には、背に色彩りあざやかな紋のある水鳥が游いでいた。うちつれて赤い小さな水掻きをうごかしながらその狭いかこいの中を円を描くようなふうに游いでゆく。陽に煌めく水面にはささやかな波紋が立って放射型のゆるい水線が尾をひいて行く。なんともいえず和んだ心地がして、わたくしは、しばらくそれに見とれていた。
加福の師匠は繍の名家としてまた「旋毛《つむじ》曲り」として業界から折り紙をつけられている。師匠という呼び名も、わたくしは弟子たちの口馴染みを真似ているわけだが、たとえば、師匠と呼ぶ代りにこの老人を先生とか加福さんとか呼んでみても、一向に馴染んでこない。やはり、この老人には加福の師匠がいっとう似つかわしかった。
世間では、本卦返りのこの齢まで通してきた師匠の独りぐらしをあれこれと取り沙汰しているようであるが、師匠は或る信条からこの独りの身を戌り通しているともきいていた。わたくしにとっては亡父の郷友にあたるところから、池ノ端数寄屋町のそのすまいへは、亡父生前よく供をして訪ねたものであった。
座業の人に猫背がに[#「がに」に傍点]股というのをよく見かけるけれども、師匠にはその気すらみえない、痩せて小柄な体躯をいつも端然と持して、長い仕事中にもそれを崩すということがない。立居のおだやかな寡黙な質で、にこやかな面《おも》だちは親しみ易いが、折おり妙に気詰りな思いがして座をはずしたくなる。何か念を凝らしていられる時には余計にこの思いがきて、その眼を見上げるさえ気後れなときがある。老齢とは言いじょう師匠の面にはその翳さえみえず、その眼に籠っているものが年どし青春《わかさ》を加えているように見える。けれども、短く刈りこんだ頭髪《つむり》はもう大分霜に覆われていて、うしろから眺める背のあたりにふっと老いの佗しさを見かけるときがある。痩せて崩さぬその後ろ背に支えてきた気骨ともいうべきものが素直にみえているだけに、そのうしろ姿の老いは一そう胸に来る。
加福の師匠は郷里に在る頃、山中の禅寺に籠ったことがあるときいていたが、朝毎、枠台を前に端座して黙然としていられるのは、そのころからの慣わしらしい。枠にとりかかると、誰れにも会わぬ仕来りであった。
こんなことがあった。
父の供をしていつかも師匠宅を訪ねると玄関の間には既に先客があって、急ぎの用事か頻りに取り次ぎ方を門弟に頼みこんでいた。永年のことで、わたくしたちは断りなしに、いつもの茶の間に通った。次の六畳ふた間が仕事部屋にあてられてある。師匠は、小庭に面したいつもの位置に少しばかり上体を俯向けて端座して、深廂のぬるい光線をうけて枠ばりの琥珀か何かに針をとおしていられた。玄関の間の先客は襖かげから顔をさし出しては急き立てる。枠にかかっている間、人に会わぬその慣わしを心得ているゆえ門弟たちはこの忙《せわ》しない客をもてあましきっているふうだったが、またも急き立てられると渋りながらも、ひとりが告げに立った。師匠はしずかに針を通していられる。尚ふた言三言かけて、下りかけると師匠が呼び止めた。不足している分の色糸を持って来るようにとのためであった。
こんなこともあった。
師匠宅で帯安の番頭と行きあわせた
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