。生憎、龍子が稽古をつけているような時は、奥の茶の間に片手枕で寝ころんだり、勝手に茶を淹れて喫んだりしながら、寿女を相手に冗談口をきいたりする。また、時には、なぐさみにピアノも敲けば、コーラスに加わって興じたりする。龍子のことを、この男は「先生」と呼んでいるが、弟子たちの口真似をしているというよりも、これには揶揄の調子が含まれていた。
中尾通章は音楽雑誌の記者くずれで、いまは「便利屋」のようなことをやっている。つまり、人の使い走りをしたり、ブローカーのようなことをしたり、音楽会の世話をやいたりしているうちに、いつしか「おっと、これは便利だ」型の男になり澄ましていた。
人の私生活の鍵をまかされる場合が多いから、この男は、心得顔に土足で何処へでも入り込む。それを自身に与えられた当然の役得としているし、まかせた人々は「困った奴だ」と愚痴をいいながらも諦めて、それを大眼にみていた。
さるピアニストが或るピアノ調律師へ金を融通したところが、期日をすぎても返さぬばかりか、日を重ねるにつれてだんだん埒があかなくなり、そのうち行方さえ晦ましてしまった。引きうけた中尾通章は、どう探し出したか、程なくその調律師から貸金の全部を取り立ててきたという。そのピアニストから龍子はきかされたことがあった。
また、或る時、龍子にあらぬ噂が立って、それが三流新聞の娯楽面いっぱいに事々しく掲げられたことがあった。来合わせた中尾に、つい興奮して憤慨を洩らすと、翌日のその新聞に謝罪文が出た。中尾がねじ込んだことだと後で解った。
龍子が中尾に金を委せるようになったのは、この二つの事であらまし中尾という人物の見透しがついたからであった。中尾のような男は、自分のことでは消極的だが、他人《ひと》のことでは奇妙に積極的になれるものである。粘りづよく強引に、時には居直るほどの強気を持ち合わせているのも、この種の男である。龍子は、そこを見込んだ。
中尾に金を託して融通させるのであるが、おもては、中尾自身に貸し付けたことになっている。中尾の伯父に、京橋目抜き通りの地所持ちがいることを知っていたから、保証人は、この人にしてはどうかと勧めてみた。万一のことを龍子は慮ったからである。どう話し合いがついてか、中尾は直ぐに伯父の判をもらってきた。証文は二通、借用証書と手数料契約書が交わされた。
この歌うたいは、算盤のみちに明るかったから、利子のことがなかなか細かく手堅かった。日歩六銭は欠かさず手取りということにして、それ以上は中尾の腕次第、九銭で貸付けた時は一銭五厘、拾銭のときは二銭という風に中尾に歩分けした。中尾が掠りを取ることを念に入れておいて、手数料は手取り利子の七分ということにした。
中尾は龍子の金を信託された責任を負い、そして、龍子は、その委託金の融通権限をもっていた。
この歌うたいは、笑窪のよったあどけない顔で、いろいろな指示をした。貸し金は小口を主として、返済は三ヵ月限度とし、貸付範囲はサラリーマンを主としていた。
或る日も、中尾は訪ねてきて、こんなふうに切り出した。
「千三百円ばかりどうでしょう? 銀行員ですがね」
「担保は?」
「それがね、郷里に地所があるとか言ってるんですがね、どうも、あやしいんでね」
「調べに行くんなら調査旅費を出させなさいな。いつかの川越みたいに、持ち出しの徒労《ただ》帰りじゃあ……」
「いやあ、あれを言われちゃあ」
と、中尾は大袈裟に頭をかいた。「当人はね、保証人を立てるようにしたいって言ってますが、どんなもんでしょう?」
「保証人なら少し割り高に貰わなくっちゃあ、ねえ」
「八銭というところでしょうかな」
「九銭九銭。中尾さんはお人が良いから駄目よ。きっと一杯奢られたのね」
「一杯は一杯でも、珈琲じゃあねえ」
と、言いざま、中尾は眉をひらいてわっはっは、と笑った。
ちょうど、茶をはこんできた寿女は、何事かと立ちつくしていたが、釣られて、つい貰い笑いをした。
この奥住の家にきてから寿女は、だんだん燥ゃぎ出すようになった。数寄屋町時代の、おどけたことを言うては人を笑わせてばかりいた寿女に戻ったようであった。龍子の弟子たちが稽古をすませて寛いでいるところへ、菓子などをはこんで行って、よく、こんな冗談を言う。
「わたしなんか、生まれつきの、とってもいい声なんですけれどねえ。惜しくって、みんな、この袋の中に納まい込んでありますの」
そして、盛り上った背を得意気にゆすぶってみせたりする。
はじめのころは言葉もかけなかった令嬢たちも、次第にうち解けて、こんな冗談をきくたびにキャッキャッと笑って、「おもしろいせむし[#「せむし」に傍点]さん」だと評判し合った。
寿女は刺繍にかかり詰めるようになった。夜ふけて、ふと眼ざめた龍子が、灯りのついている女中部屋を訝かって覗いてみると、枠におしかぶさって寿女が針を刺している。声をかけても気付くふうもなく、ただ、ひたむきに刺している。その容子のただならぬ一途さに、ふと、異様なものを見る気がして、龍子は怖気立つときがあった。
繍の手をよくしているということは龍子も知っていたから、これを重宝がって、半襟だの帯だの袱紗だのクッションだのに、無暗と刺繍をさせた。そして、これを知人や弟子たちへの贈り物にもした。
「ねえ、お寿女さん、こんなきれ[#「きれ」に傍点]があまっているけど、花模様か何かの刺繍してスリッパでも拵さえたらどうかしら。可愛らしいのが出来るでしようねえ」
小ぎれ箱をかきまわしていた龍子が、はずみ立って、こんなことを言うときがある。自分の思いつきに軽い興奮をおぽえて、小ぎれをいろいろに取り出して並べながら、
「お弟子さんたちへスリッパの贈り物をしようかしら。残りぎれのお手製スリッパなんて、ちょっと気がきいててよ」
弟子たちからは何かにつけて高価な贈り物が届けられるので、龍子も時には返礼をする。そして寿女は吩咐けられてクリスマスまでの一と月足らずの間に精を出して、二十足あまりのスリッパの分《ぶん》に刺繍を仕上げなければならない。かかり詰めていて、電話のベルにも気が付かずにいて、よく龍子に小言をいわれた。
龍子にかしずくこと、龍子に命じられ龍子に小言をいわれることさえ、寿女には歓びであった。龍子の傍近くに居られるということだけでも、寿女は無上の満足感動をおぼえていた。寿女にとって、龍子は、心魂を高め潤おす一つの魅力であった。寿女の眼には、その魅力しか映らなかった。
龍子の前では背をみせることが、寿女には何か臆せられた。やむを得ない用事で立たなければならない時は、冗談口をきいたり髪へ頻りに手をやったりして、龍子がそれに気をとられているまに、壁や襖に添うて何気ない風に素早く去った。
春の初めの凍てつくような寒さが続いて、寿女は感冒にかかり咳込むようになった。二三日早寝をすると、どうやら咳も止まったので気にもとめずに働いた。暇さえあれば、小枠の刺繍にかかり詰めた。これに打ち込みはじめたのは、二年ばかり前からであった。
食事が進まず、五月に入ってから二日ほどまた早寝をした。医者に診てもらってはどうか、と龍子は口では勧めながらも、あり合せの感冒薬で間に合せるのだった。
龍子のいるところでは、寿女は寝《やす》んでいたことが無かった。針をもつことも叶わず、横になっている時でも、気配をききつけると跳ね起きた。熱っぽく赤い顔が前のめりになることがあった。それでも龍子のいるところでは、覚束無いながらも縫い物の手を動かしていた。不意に、龍子が女中部屋へ入ってきたことがあった。客があって、茶の支度を吩咐けにきたのであったが、早く牀に臥していた寿女は、飛び起きて、前をかき合せざま壁に背を寄せた。促し立てられると背を壁に沿うたなり、勝手へ出て、ふらつく躯を踏みこたえながら茶の支度にかかった。
それから数日すぎて、龍子が外から帰って来ると、いつも走り出迎える寿女の姿が見えない。声をかけてもなんの気配もない。女中部屋を覗いて見ると、枠台に屈み込んで、せいせい呼吸《いき》をはずませて針に熱中していた。
梅雨に入ってから、寿女は、また一週間ばかり早寝をした。夜中、水を飲みに起き出るような気配も、呻き声も、うつつに聞いたようであったが、龍子は眠っていた。
或る日、突然、寿女の姿がみえなくなった。龍子が弟子たちに稽古をつけていた間のことである。その夜は戻らず、尾久の家かと大して気にもとめなかった。
一日おいて、中尾が来たので、龍子は話した。尾久からは、来ていないと簡単な返事があった。中尾は、女中部屋の押入れの中を調べた。龍子はすっかり落着きを失って、敷居のところにうろうろして、せっついて中尾に話しかけてばかりいた。
小枠だけがみえなくなっていた。
「せんせい[#「せんせい」に傍点]この頃少し逆上《のぼ》せていたようだから、変になったんじゃないかな」
茶の間に戻ってきて、中尾は立ったまま餅菓子をつまみ食いしながら言った。
中尾に引き添うて喋りつづけていた龍子は、それで、ぎくっとした顔になったが、うろたえて、
「厭がらせを仰言らないでよ。ねえ、中尾さん、お願いよ、早くどうかして頂戴」
と、せがんだ。
中尾が探してみることになった。
その夜、遅くなって、中尾から電話がかかってきた。寿女の居所が分ったと言う。施療院で危篤状態だということであった。
翌朝、早く、中尾がやってきた。
「どうも、酷い目にあった。とうとうお通夜をさせられちゃってね。……そうそう、あんたの名前を二度も呼んだっけが。矢っ張り恩を感じていたんだね。可哀相に……。僕が駈けつけた時は、もう、訳の分らない譫言ばかり言ってたんだからね。肺炎だそうだ。だが、よく、あそこまで持ちこたえたもんだ。医者も感心してたがね」
「なんだって施療院なんかで……」
と、龍子は独り言にいった。
「警察から廻わしたんだが、なんでも、錦糸堀の車庫の辺で行き倒れになっていたそうだ。尾久へでも行くつもりだったろうが。いや、尾久とは方角違いだしなあ。此処を出たのが五日で、七日の朝に病院へ運んだっていうんだから、まあ、まる二日外にうろうろしていたわけなんだなあ」
中尾は自分で茶を淹れて、熱いのをふうふう吹きながら上眼で龍子を見て言った。
「どうです、先生、出かけますか? まだ、死亡室に置いてありますがね」
龍子は不興気に頭《つむり》を振った。
「これから、また、ひとっ走りして、運び出しに立会わなけあ」
窓硝子ごしに覗いて見て、「よく、降りやがる」
そして、濡れたレインコートをまたひっかけた。
「そうそう、妙な爺さんがいたっけが、あれあ尾久の家の人かい。こっちで、もの言っても黙りこくってるし、居眠りしてるかと思って覗くと、目玉をぎょろりと開けてるしさ、危く声出すとこだったよ。なんしろ、夜っぴて、爺さんと二人っきりでさ、火もないとこに無言の行だったからなあ」
ゴム靴の釦をはめている中尾の背へ、龍子は気弱く、
「恩に着るわよ」と声をかけた。
その夜、中尾がまた立寄った。
「万事済みましたよ、先生、尾久の兄さんという人がきて引き取って行きましたがね。……どうも、あのお寿女さんて妙な娘《こ》だったなあ。此処の家も、尾久の家も、ところを明かさずじまいだったらしいが。……そうそう、あの爺さんね、なんでも元いた家の隣りの……」
「ああ、加福さんでしょう。有名な刺繍屋さんよ」
「ああ、あの人が、ねえ」
中尾は、感動をもって、寸時、黙した。
加福の師匠は、この日の午過ぎ、奥住の家に立寄ったのであった。悔みをのべて後、師匠はこう言った。
「寿女さんの刺繍されたもので、何か遺っているものでもありましたら、ぜひにも拝見させて頂きたいと思って参上しましたが」
「なんですか、鷲だか鷹だかの刺繍にかかっていたようでしたが、あれは……」
「あれは遺言で、わたくしが頂戴しました」
と、師匠はしずかに言った。「何か、他に遺っているものでもありましたらと思って……」
「ほかにと
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