くしは樹蔭を足にまかせて歩きながら急に背の汗をおぼえた。東照宮をすぎて樹枝の小暗いまでに繁りあった径をおりて、池の端に出た。見渡すかぎりの蓮であった。葉と葉が重なりあうほどに混んでいて繁茂しているというにふさわしく、白と淡紅の大輪の花がみえかくれしていた。縁に近く、ちょうど蓮の葉でかこいをされたぐあいの一坪ばかりの水の面《も》には、背に色彩りあざやかな紋のある水鳥が游いでいた。うちつれて赤い小さな水掻きをうごかしながらその狭いかこいの中を円を描くようなふうに游いでゆく。陽に煌めく水面にはささやかな波紋が立って放射型のゆるい水線が尾をひいて行く。なんともいえず和んだ心地がして、わたくしは、しばらくそれに見とれていた。
 加福の師匠は繍の名家としてまた「旋毛《つむじ》曲り」として業界から折り紙をつけられている。師匠という呼び名も、わたくしは弟子たちの口馴染みを真似ているわけだが、たとえば、師匠と呼ぶ代りにこの老人を先生とか加福さんとか呼んでみても、一向に馴染んでこない。やはり、この老人には加福の師匠がいっとう似つかわしかった。
 世間では、本卦返りのこの齢まで通してきた師匠の独りぐらしをあ
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