足あまりのスリッパの分《ぶん》に刺繍を仕上げなければならない。かかり詰めていて、電話のベルにも気が付かずにいて、よく龍子に小言をいわれた。
 龍子にかしずくこと、龍子に命じられ龍子に小言をいわれることさえ、寿女には歓びであった。龍子の傍近くに居られるということだけでも、寿女は無上の満足感動をおぼえていた。寿女にとって、龍子は、心魂を高め潤おす一つの魅力であった。寿女の眼には、その魅力しか映らなかった。
 龍子の前では背をみせることが、寿女には何か臆せられた。やむを得ない用事で立たなければならない時は、冗談口をきいたり髪へ頻りに手をやったりして、龍子がそれに気をとられているまに、壁や襖に添うて何気ない風に素早く去った。
 春の初めの凍てつくような寒さが続いて、寿女は感冒にかかり咳込むようになった。二三日早寝をすると、どうやら咳も止まったので気にもとめずに働いた。暇さえあれば、小枠の刺繍にかかり詰めた。これに打ち込みはじめたのは、二年ばかり前からであった。
 食事が進まず、五月に入ってから二日ほどまた早寝をした。医者に診てもらってはどうか、と龍子は口では勧めながらも、あり合せの感冒薬で間に
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