ひろげられて、想いはいつしか推古の大観へ至ると言われる。
 繍帳はもと法隆寺の宝蔵の奥ふかく納まわれてあったが、のち、中宮寺にうつされ文永年間信如尼によって修補が行われた。当時すでに繍糸の落脱したところもあって亀甲にしるされた繍文の解読に苦心をはらうほどだったが、まだその原形をそこなうまでには至らなかった、併し、徳川中紀の頃には已に今日みるような小断欠になってしまっていた。繍帳原形は中央に浄土変相をあらわし、瑞雲、霊鳥、霊樹、雲形、花鳥、人物、鬼形、仏像などを、周りに大銭のような亀甲が一百ばかりつらなり、一甲に四字あて、すべてで四百字、この繍文によって繍帳製作の由来をあらわしたと言われる。なお、先生はその製作のゆえをこんなふうに釈かれる。推古天皇の三十年二月二十二日に聖徳太子が薨去《こうきょ》あらせられたので、妃の橘大女郎哀傷追慕のおもいやるかたなく、勅を請うて太子が日ごろ説かれ給うた天寿国のもようを図がらにあらわしてそこに太子御往生の容子をみられんことを念じられた。天皇はその哀情を深く思召され勅諚をもって繍帳を二張つくらしめ給うた、その下絵には絵師の東漢末賢《やまとのあやのまつけん》
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