合せるのだった。
 龍子のいるところでは、寿女は寝《やす》んでいたことが無かった。針をもつことも叶わず、横になっている時でも、気配をききつけると跳ね起きた。熱っぽく赤い顔が前のめりになることがあった。それでも龍子のいるところでは、覚束無いながらも縫い物の手を動かしていた。不意に、龍子が女中部屋へ入ってきたことがあった。客があって、茶の支度を吩咐けにきたのであったが、早く牀に臥していた寿女は、飛び起きて、前をかき合せざま壁に背を寄せた。促し立てられると背を壁に沿うたなり、勝手へ出て、ふらつく躯を踏みこたえながら茶の支度にかかった。
 それから数日すぎて、龍子が外から帰って来ると、いつも走り出迎える寿女の姿が見えない。声をかけてもなんの気配もない。女中部屋を覗いて見ると、枠台に屈み込んで、せいせい呼吸《いき》をはずませて針に熱中していた。
 梅雨に入ってから、寿女は、また一週間ばかり早寝をした。夜中、水を飲みに起き出るような気配も、呻き声も、うつつに聞いたようであったが、龍子は眠っていた。
 或る日、突然、寿女の姿がみえなくなった。龍子が弟子たちに稽古をつけていた間のことである。その夜は戻らず、尾久の家かと大して気にもとめなかった。
 一日おいて、中尾が来たので、龍子は話した。尾久からは、来ていないと簡単な返事があった。中尾は、女中部屋の押入れの中を調べた。龍子はすっかり落着きを失って、敷居のところにうろうろして、せっついて中尾に話しかけてばかりいた。
 小枠だけがみえなくなっていた。
「せんせい[#「せんせい」に傍点]この頃少し逆上《のぼ》せていたようだから、変になったんじゃないかな」
 茶の間に戻ってきて、中尾は立ったまま餅菓子をつまみ食いしながら言った。
 中尾に引き添うて喋りつづけていた龍子は、それで、ぎくっとした顔になったが、うろたえて、
「厭がらせを仰言らないでよ。ねえ、中尾さん、お願いよ、早くどうかして頂戴」
 と、せがんだ。
 中尾が探してみることになった。
 その夜、遅くなって、中尾から電話がかかってきた。寿女の居所が分ったと言う。施療院で危篤状態だということであった。
 翌朝、早く、中尾がやってきた。
「どうも、酷い目にあった。とうとうお通夜をさせられちゃってね。……そうそう、あんたの名前を二度も呼んだっけが。矢っ張り恩を感じていたんだね。可哀相に……。僕が駈けつけた時は、もう、訳の分らない譫言ばかり言ってたんだからね。肺炎だそうだ。だが、よく、あそこまで持ちこたえたもんだ。医者も感心してたがね」
「なんだって施療院なんかで……」
 と、龍子は独り言にいった。
「警察から廻わしたんだが、なんでも、錦糸堀の車庫の辺で行き倒れになっていたそうだ。尾久へでも行くつもりだったろうが。いや、尾久とは方角違いだしなあ。此処を出たのが五日で、七日の朝に病院へ運んだっていうんだから、まあ、まる二日外にうろうろしていたわけなんだなあ」
 中尾は自分で茶を淹れて、熱いのをふうふう吹きながら上眼で龍子を見て言った。
「どうです、先生、出かけますか? まだ、死亡室に置いてありますがね」
 龍子は不興気に頭《つむり》を振った。
「これから、また、ひとっ走りして、運び出しに立会わなけあ」
 窓硝子ごしに覗いて見て、「よく、降りやがる」
 そして、濡れたレインコートをまたひっかけた。
「そうそう、妙な爺さんがいたっけが、あれあ尾久の家の人かい。こっちで、もの言っても黙りこくってるし、居眠りしてるかと思って覗くと、目玉をぎょろりと開けてるしさ、危く声出すとこだったよ。なんしろ、夜っぴて、爺さんと二人っきりでさ、火もないとこに無言の行だったからなあ」
 ゴム靴の釦をはめている中尾の背へ、龍子は気弱く、
「恩に着るわよ」と声をかけた。
 その夜、中尾がまた立寄った。
「万事済みましたよ、先生、尾久の兄さんという人がきて引き取って行きましたがね。……どうも、あのお寿女さんて妙な娘《こ》だったなあ。此処の家も、尾久の家も、ところを明かさずじまいだったらしいが。……そうそう、あの爺さんね、なんでも元いた家の隣りの……」
「ああ、加福さんでしょう。有名な刺繍屋さんよ」
「ああ、あの人が、ねえ」
 中尾は、感動をもって、寸時、黙した。
 加福の師匠は、この日の午過ぎ、奥住の家に立寄ったのであった。悔みをのべて後、師匠はこう言った。
「寿女さんの刺繍されたもので、何か遺っているものでもありましたら、ぜひにも拝見させて頂きたいと思って参上しましたが」
「なんですか、鷲だか鷹だかの刺繍にかかっていたようでしたが、あれは……」
「あれは遺言で、わたくしが頂戴しました」
 と、師匠はしずかに言った。「何か、他に遺っているものでもありましたらと思って……」
「ほかにと
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