り合わせていく。うしろ背を連之助の眼にふれさせまいとしている。連之助のいるところでは決して座を立ったことがなかったし、何かの用事で話しをしなければならないときには、きっと、髪へ手をやった。
こうして座に居ついたままの寿女へ、糸箱から糸を取ってきてやったり、針の代えに心を配るのは銀三であった。銀三は、この家に住込んでからは、ずっと師匠の身のまわりの世話から客の取り次ぎ、勝手元いっさいまでも独りで取り仕切って、針に打ち込む間もない時がある。師匠と共にいるこの暮しを何よりの喜びとしているし、この律儀一途な性分を重宝がって連之助は、自分もまた師匠のように身のまわりのことをさせつけていた。
或る時、師匠から「四君子」と題が出て、三人の弟子は競うてかかりつめたが、誰れよりも早く仕上り、師匠の糸ぐせも巧みに出して、色彩りも鮮やかに人眼を惹いたのは、連之助の仕事であった。併し、師匠は、寿女を採った。人の眼には粗にして取るに足らぬともみえるその技を採った。銀三は二人に十日余りも遅れていて、なお仕上らなかった。
「人の眼を気にして針をもつと邪に逸れる」
と、師匠は弟子たちを前にして言った。
「怕ろしいことだ。堕して立ち直っても、こんどは針が言うことをきかなくなってしまう。ひとりでに邪に逸れて行く」
とも言った。
このことがあってから銀三の寿女へむける態度には、一種、畏敬に近いものが加わった。それを外して、寿女は相変らずおどけを言っては銀三を笑わせる。
「銀三さんがお内儀さんをもらったら、ずいぶん大切にするでしょうねえ。帯から着物、半襟、下着までもみんなごてごて刺繍してやってさ」
連之助までが横をむいて、くすっと笑う。
「それに銀三さんのことだから、御飯ごしらえから子供の守りまで、ひとりで立ちまわってさ、割烹着なんかきて市場へ買い出しに行ったりしてさ。お内儀さんは上げ膳据え膳のおかいこぐるみで、年児ばかり生んで……」
「背中に一人、懐ろに一人、右と左に一人ずつか」
と銀三も酬いて笑った。
「ほんとうに、そんなお内儀さんになれたら女冥利につきるけれど……ねえ、銀三さん、あちこち選り好みばかりしていないでさ、手近いところであたしなんかどうでしょう。小っちゃい可愛らしいお内儀さんが出来上ってよ。まるで、お人形みたいだって、御近所で評判になることよ」
銀三は笑いながら聞いているが、こんなことを言われるたびに、いつも戸惑いしてしまう。そして、だんだん笑わないで、考え込むようになった。
或る日、地震があって、電球が僅か揺れたぐらいでやんでしまったが、咄嗟に、寿女も銀三も座を立ちかけた。胡粉で下絵から布地に絵を写していた連之助だけは、素知らぬ顔で続けている。微かな揺れかえしがきた時、中腰になっていた寿女は大袈裟に蹣跚《よろ》けて隣りの枠台に手をつき、胡粉皿がひっくりかえった。写しかけの綴れの布に白い絵具がべっとりと流れ、連之助は、呆然と顔を上げて、寿女を見た。
また、或る日、銀三といつもの冗談口をききあっていた寿女が、大きな声を上げて笑い出すと、連之助が顔を上げて、
「少し静かにして下さい」
と怒鳴った。
「こちらはこちら、そちらはそちらよ。おうるさかったら、どうぞ塀でもまわして下さいな、お隣りさん」
寿女は取り澄まして、持ち針をちょいちょいと髪へなすりつけながら酬いた。
「何を言う」
と、連之助はむっとして針を続けたが、不意に、「あっ!」と低く言って、手をひいた。左の人差指の先に血が玉になっている。刺しを酷くしたらしい。咄嗟に、寿女はその手をひったくって、指先の血を吸った。涙ぐんでいた。
また、或る日、師匠の供をして連之助が外から戻って来ると、玄関まで出迎えた寿女がなかなか引きかえして来ない。銀三が行ってみると、寿女は三和土にしゃがんで履物を片付けている。びくっとして面を上げたが、袂で連之助の下駄の埃りをはらっていたところであった。
寿女が加福の師匠の許へ通い出してから、三年あまり過ぎていた。今では師匠も眼をはなして、その技に委せている。寿女は念を凝らしてかかり詰めた。針にのった静かな心が、枠に対《むか》うと自然に滑り出す。出しぬけに、烈しいものがこの針を衝き進め、寿女はまごつく時がある。烈しいものを綯い混ぜに針がすすんで、こんなとき、よく、師匠に窘められた。
或る晩、男弟子たちが他出した折りに、師匠が寿女を呼んで言った。
「銀三があなたを家内にしたいと言うのだが、どうでしょう」
師匠も時にはさりげのない顔で揶揄いをいうことがあるので、また、それかと寿女は笑いながら取り合おうともしなかったが、黙している師匠の、いつまでも恬《しず》かな容子を視ているうちに、不意にそわそわし出した。
「あなたの気持ちを訊いてみてから決めるのが本当
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