だが、どうも、あれが気が急くとみえて、独り合点で、親元のほうへも、もう手紙を出したとか言っていますが」
 と、師匠は言った。
「自分としては良縁だと思っているし、それに何よりも、銀三だったら、あなたを大切にしてくれるだろうと思う。しかし、これを強いて、あなたに勧める気持ちは無い。あなたが真に倖せに生きる道をどこに求めたらいいか、わたしも考えてみたが……まだ、いまは銀三の心をお伝えする役目しかつとまりません」
 こう言って、師匠は膝に眼をおとした。
 急に寿女が座を立った。息をせいせい言わせて勝手口へ走って行った。
 師匠も続いて座を立ったが、敷居のところに立ちつくしたままでいた。
 暗い路地にしゃがみこんで、寿女は噎《むせ》び泣いていた。

 寿女が加福の家から暇をもらったのは、それから間もなくであった。常から腎臓を患っていた母親が、この日頃、とかく勝れず牀に臥しがちである。そのことを申し訳の言い草にしていた。母親の看取りから頼まれた賃仕事、店の事一切までを寿女は小まめに取りしきった。じっと手を休めていることが無く、始終忙しく何かしていた。店に客の声がしても気の付くふうもなく、縫い物などに熱中しているとみえる後ろ背の、凝っと丸く俯向いている時がある。そんな折り、母親に呼ばれると、よく、とんちんかんな返辞をして笑われた。長い間の慣わしから、客に冗談を言いかけて笑わせることに変りはなかったが、なんとなくそれも上の空で弾《はず》まない。いつものように腰をおろすこともなく客は帰った。
 寿女は外へ出ることを億劫がるようになった。つい近所の八百屋へ行くのにも、せいせい息を切らして、駈けるようにして戻って来る。到来物があるたびに、以前は燥ゃぎ立って隣家の加福の家へ自分で裾分けを持って行ったものだったが、この頃は、母親に言われても、何かに仮託《かず》けて、つかいに行きたがらない。
 母親が起き出られるようになって、どうやら針の手がはこぶようになると、或る日、突然、寿女が二長町の従兄の家へ行くと言い出した。従兄の嫁がお産をして、手不足で困っているという話しが二三日前耳に入っていた。母親は、この唐突さに吃驚したが、寿女は着換えを風呂敷包みにすると、そそくさと家を出た。
 従兄は小僧を一人使って、小さな酒屋をいとなんでいたが、ここでも、寿女はせいせい息をきらして、始終立ち働いていた。お産の牀にある従兄の嫁の世話から嬰児の襁褓の洗濯、幼い子たちの面倒をみながらの食事ごしらえ、小僧に手伝って酒瓶を洗ったり、味噌を量《は》かったり、それでも手のすいているときは、炭の粉でせっせと炭団を丸めたりした。
 従兄には生まれたばかりの子をいれて、七つを頭に四人の子供があったが、上の二人は、寿女を呼ぶのに、「らくだ、らくだ」と囃したてて、よく、ふざけて、その背に飛びついたり、瘤を叩いたりしてキャッキャッと騒いだ。漸う、よちよち歩きはじめたばかりの三番目の子までが、まわらぬ口で、「ヤクダ、ヤクダ」と呼びたてて、寿女の背に乗りたがる。泣き出されると、寿女は困って、よく、この子の駱駝になって、狭い部屋の中をせいせい言って匍い歩いた。
 母親がまた牀に臥すようになって、寿女は家へ呼び戻された。加福の師匠のはからいで近くの医者にかかったが、浮腫はなかなか引かなかった。
 尾久の家から嫂が見舞いに来た。かえりしな、物欲しそうにして店の中を見まわしているので、寿女は、嫂が不自由しているという笊だの簓《ささら》だのを風呂敷いっぱいに包んで持たせてやった。親戚の人たちが来ても矢張りこうであった。店の品を一つ二つ貰ってかえる。仕入れのことまでは思いが行かず、この人たちには、店にごたごた置き並べてある品物の、どれかをかい[#「かい」に傍点]撮まないだけ損をする、とでもいうような気軽な風がみえた。
 尾久の嫂は、素直な優しいひとで、言葉なども控え目に丁寧だったけれども、なにか、その丁寧さ優しさの中に、近寄り難い冷めたさがあった。
 売上げだけでは到底過せなかったから、寿女はよく夜を徹して仕立物にかかりつめた。尾久の嫂の優しさに縋り付きたい気持ちで一、二度足をはこんだが、会うと、その丁寧な物腰言葉に妙に隔てられて、気詰りな思いばかりであった。
「折角、加福さんで手を覚えこんだのだから、何か刺繍の内職をしてみたらどうだろうねえ。お針のほうと違って、刺繍は値がいいそうだがねえ」
 寿女が寝《やす》まない夜は、母親もまた枕の上で起きていた。そして、黄っぽく浮腫《むく》んだ面を横にしたまま褄さきや裾ぐけを手伝ってやりながら、窺うようにそんなことを言うた。
 寿女は困ったようにちらと母親を見たが、それなり針を運ばせている。
 母親は遠慮がちに、また、言った。
「加福さんに頼んでみたら、どうにか仕事を
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