女を見る人があるので、つれの娘たちは顔を赧らめて、何気ないふうに自分たちだけで話をはずませたりして行く。
「あたし、とっても早足だかち先きへ行って待ってるわね。ごめんなさいね」
寿女はきっとこんなことを言って、真っ赤になってせいせい息を切らして、先きへ行く。
せっかく誘ってやったのに、置き去りにするなんて、ずいぶんね、と娘たちは不満を洩らしあったが、
「でも、ねえ、並んで歩くよりか、ねえ」
と、ひとりが頸をすくめてちょろりと舌を出すと、みんなも頸をすくめてクスクス笑いあった。
大通りの雑沓の中から寿女は伸び上るようにして、にこにこして、連れのほうをちょいちょいと振りかえってみる。そして、丸く盛りあがった背が弾んでみえるほどの急ぎ足で、間もなく小さな姿はまったく人混みに隠れてしまう。
寿女がこの娘たちの前で自慢にしていることがたった一つあった。ソプラノ歌手の奥住龍子のことである。龍子の母と寿女の母親とは従姉妹どうしだったし、母親が最初の子を嬰児のままで喪うて間もない頃、乳不足の龍子を託せられたことがあった。四つのときに龍子は生家へ引きとられていったが、乳の母を慕って、矢張り、種村の家に寝泊りすることが多かった。やがて、寿女が生まれて母親の乳房にしがみつくようになると、稚い龍子はいきり立って、その乳房をがむしゃらにひったくった。
眼鼻だちのぱらりとした笑窪の顔が愛嬌だったし、人見知りをするふうもなくて、よく遊戯をしたり、大きな声で唱歌をうたったりしてみせるので、誰れからも可愛がられた。賞められると稚い龍子は何度でもそれをしてみせた。
「奥住の嬢さん」と寿女の母親は言い慣わした。龍子の父が名の通っている弁護士だったから、何かそのことに手の届きかねる生活の高さを感じていたし、そこからの預り娘だということで母親は並々ならぬ面目を感じていた。寿女も耳馴染みで「奥住の嬢さん」と呼ぶ。この綺麗な人が自分の乳姉妹だということに胸一ぱいの誇りを感じていた。
よく、新聞雑誌で龍子の写真を見付けると、いちいちそれを見せに近所の娘たちのところへ息をせいせい言わせて駈けつける。龍子が音楽学校を華やかに巣立ったころのことで、その写真や名前の切り抜きを、寿女は丁寧に堅紙で包んで針箱の底に納まっておいた。
広小路の百貨店まで買い物にきたついでだからと、龍子が、この母娘の小店へ立寄ったことがある。その名が世に出て後、自分から足をはこんできたのは、たった一度この時だけであった。
寿女が隣家の加福の師匠の許へ通いはじめたのは十九の時である。それまでも、母親の心遣いで事あるたびに赤飯だの煮〆だのを勝手口から届けに行くと、招じ入れられて、しぜん、繍をおぼえ、弟子たちの仕かけにいたずらの真似刺しなどして、よく笑われた。通ってみてはどうか、と勧めたのは師匠で、自身、母親を説きに訪ねてみえたりした。
娘に刺繍をおぼえこませるということは、母親にとっても希んでいるところであった。仕立物の針はひと通り運ぶようになったし、このうえ、繍の手をおぼえこんでくれたなら、不自由の身が独り遺されても、どうやら凌いで行けるだろうから、と母親の思案は、自分亡きのちの寿女のことにばかり至りがちである。
当時、加福の門弟は銀三と連之助の二人だけであった。十六の齢から七年間仕込まれて、未だに遅々としている銀三に較べて、連之助は、弟子入りしてからまだ二年にも満たなかったが、その技の進歩は人眼を瞠らせる。ただ、師匠だけが、いつになってもその技を良しとしない。糸ぐせまでが師匠そっくりだったから、帯安の番頭などは、これを見付けものにして、内証で、師匠の名を用いた仕事を頼み込んだりした。
この連之助と銀三に挟まれた位置で、寿女は枠台にむかっていたが、憚からず冗談口のきけるのは銀三とばかりで、連之助へは声をかけることも稀れである。連之助のほうでも、寿女や銀三へは構いつけなかった。これは内気寡黙のゆえともみえる。けれども同じ連之助が、いかにも、うちやわらいだ愛想顔をみせる時がある。師匠や帯安の番頭の前に出たときだけであった。
寿女は何がなし、この連之助へ挑みかかりたいような気持ちにさせられる。何がなし、その仕事を打負かしてやりたい気持ちにさせられる。そして心を凝らして、ひたむきに励んだ。
寿女は糸を縒り合わせることが器用だったから、よく、銀三の分も手伝ってやった。それが仕癖になって、銀三は、
「お寿女さん、割り合せを頼むよ」とか、「こんどは二菅合せだ」とか、小声で頼み込む。
枠孔へ目打ちを立ててそれに糸を引いて、一方を口に啣え一方を縒りながら合せていく機敏な動作は、立って為ることが慣わしとされているけれども、寿女はそうした例しがない。いつも、中腰になって上背をよじるようにして手早く縒
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