ことがある。その名が世に出て後、自分から足をはこんできたのは、たった一度この時だけであった。

 寿女が隣家の加福の師匠の許へ通いはじめたのは十九の時である。それまでも、母親の心遣いで事あるたびに赤飯だの煮〆だのを勝手口から届けに行くと、招じ入れられて、しぜん、繍をおぼえ、弟子たちの仕かけにいたずらの真似刺しなどして、よく笑われた。通ってみてはどうか、と勧めたのは師匠で、自身、母親を説きに訪ねてみえたりした。
 娘に刺繍をおぼえこませるということは、母親にとっても希んでいるところであった。仕立物の針はひと通り運ぶようになったし、このうえ、繍の手をおぼえこんでくれたなら、不自由の身が独り遺されても、どうやら凌いで行けるだろうから、と母親の思案は、自分亡きのちの寿女のことにばかり至りがちである。
 当時、加福の門弟は銀三と連之助の二人だけであった。十六の齢から七年間仕込まれて、未だに遅々としている銀三に較べて、連之助は、弟子入りしてからまだ二年にも満たなかったが、その技の進歩は人眼を瞠らせる。ただ、師匠だけが、いつになってもその技を良しとしない。糸ぐせまでが師匠そっくりだったから、帯安の番頭などは、これを見付けものにして、内証で、師匠の名を用いた仕事を頼み込んだりした。
 この連之助と銀三に挟まれた位置で、寿女は枠台にむかっていたが、憚からず冗談口のきけるのは銀三とばかりで、連之助へは声をかけることも稀れである。連之助のほうでも、寿女や銀三へは構いつけなかった。これは内気寡黙のゆえともみえる。けれども同じ連之助が、いかにも、うちやわらいだ愛想顔をみせる時がある。師匠や帯安の番頭の前に出たときだけであった。
 寿女は何がなし、この連之助へ挑みかかりたいような気持ちにさせられる。何がなし、その仕事を打負かしてやりたい気持ちにさせられる。そして心を凝らして、ひたむきに励んだ。
 寿女は糸を縒り合わせることが器用だったから、よく、銀三の分も手伝ってやった。それが仕癖になって、銀三は、
「お寿女さん、割り合せを頼むよ」とか、「こんどは二菅合せだ」とか、小声で頼み込む。
 枠孔へ目打ちを立ててそれに糸を引いて、一方を口に啣え一方を縒りながら合せていく機敏な動作は、立って為ることが慣わしとされているけれども、寿女はそうした例しがない。いつも、中腰になって上背をよじるようにして手早く縒
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