モられたのだとでも思つてゐたのだらう。水夫が窓から覗いた時には、猩々はレスパネエ夫人の白髪を左の手で掴んで、右の手で剃刀を顔の前に持つて行つて上げたり下げたりしてゐた。床屋が人の顔を剃る真似でもしてゐるやうに見えた。夫人の髪を掴んだのは、多分夫人が髪をとかしてゐたので、猩々がそれに手を出したのだらう。娘は床に倒れてゐた。気を失つてゐたらしい。猩々は最初いたづらをする積りであつたのに、夫人が叫びながら振り放さうとするので、獣もそれに抗抵するうちに気が荒くなつたらしい。猩々は力一ぱい剃刀で吭《のど》を切つた。頭が殆ど胴から離れさうになる程切つた。猩々は血を見たので、いよ/\気が荒くなつた。そして目を光らせ、歯を剥き出して、倒れてゐた娘に飛び掛かつて、右の手の平で吭を締めて、息の絶えるまで放さなかつた。そのとたんに猩々のきよろ付く目が窓を見ると、そこには恐怖の余りに蒼くなつた主人の水夫の顔が見えた。その時猩々の激怒は変じて恐怖となつた。主人は自分を威す鞭の持主だからであらう。そこで猩々は自分のした血腥い為事の痕跡を隠さうと思つて、室内を走り廻つて、道具をこはしたり、寝台の藁布団を引き出したりした。それから娘の死骸を煖炉の中へ無理にねぢ込んで、夫人の死骸を窓から外へ投げ出した。丁度猩々が夫人の死骸を窓へ持ち出した時、水夫はひどく驚いて夢中で棒をすべり下りて逃げ出した。そして急いで宿に帰つて、猩々の行方には構はずにゐたと云ふのである。
――――――――――――
この水夫の話に附け加へる事は格別ない。レスパネエ夫人の家に駆け着けた人々が、梯子を登りながら聞いた声は、猩々の叫声と、窓からどなつた水夫の声とであつた。猩々は人々が外から部屋の戸を破る時窓へ逃げて来て、外へ飛び出して跡の戸を撥ね返したものと見える。
猩々は後に水夫の手に戻つて、水夫はそれをジヤルダン・デ・プラントへ高い値段に売つた。
それより前に、ドユパンが水夫の話を書き取つて、それに説明書を添へて、警視庁へ出したので、ルボンは放免せられた。警視総監はドユパンに屈伏しながら、心中不平に堪へないので、人間は職分外の事に手を出すのは好くないなどとつぶやいてゐた。併しドユパンはそれに構はずに、こんな事を言つてゐた。「なんとでも勝手に云ふが好い。あれは自分が捜索を為遂げなかつたので、自分で自分に分疏《いひわけ》
前へ
次へ
全32ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング