ス。これまで猩々が暴《あ》れ出すと、鞭で威《おど》すことにしてゐたので、今度も鞭を出した。猩々は鞭を見るや否や、直ぐに戸口から走り出て梯子を駆け下りた。それから第一層屋の窓が開いてゐたのを見て、往来へ飛び出した。水夫は一しよう懸命に追つ掛けた。猩々は剃刀を持つたまゝ、少し逃げては立ち留まつて、振り返つて見て、水夫を揶揄《からか》ふやうにして、追ひ付きさうになると、又逃げた。こんな風で余程長い間追つて行つた。午前三時の事だから、人の往来《ゆきゝ》はない。そのうち病院横町の裏へ来ると、一軒の家の高い窓から明りのさしてゐるのが、猩々の目に付いた。それがレスパネエ夫人の住んでゐた第四層屋の窓であつた。猩々は窓の下へ駆け寄つた。そして避雷針の針金を支へた棒を見付けて、それに登つた。そして壁にぴつたり付くやうに開いてゐた窓の外の戸の桟に掴かまつて、室内の寝台の上に飛び込んだ。それが一分間とは掛からなかつた。猩々は室に這入る時、外の戸を背後《うしろ》へ撥ねたので、外の戸は又開いた。水夫は安心したやうな、又気に掛かるやうな心持がした。なぜ安心したかと云ふに、猩々は同じ棒を伝つて下りて来るより外はないから自分で羂《わな》に掛かつたやうなもので、もう掴まへられさうだと思つたからである。なぜ気に掛かるやうに思つたかと云ふに、あの窓の中で何か悪い事をしでかすかも知れぬと思つたからである。その気に掛かるところから、水夫は決心して猩々の跡から附いて登つて、窓を覗いて見ようとした。水夫の事だから、棒に攀ぢ登るのは造作もなかつた。併し窓の高さまで登つて見ると、それから先へは往かれなかつた。窓は左手にあつて、大ぶ離れてゐる。体を曲げて覗いて見なくては、室内が見えない。やつと覗いて見た時、水夫はびつくりして、今少しで手を放して落ちるところであつた。この時救を求める恐しい声が、病院横町の人の眠を破つたのである。レスパネエ夫人と娘とは寝衣《ねまき》一つになつて、例の鉄の金庫を室の真ん中に引き出して、その中の書類か何かを整理してゐたらしい。金庫は開けてあつて、中の物が床の上に出してあつた。多分二人の女は窓の方を背にして坐つてゐたのだらう。なぜと云ふに、猩々の飛び込んだ時から、叫声のした時まで大ぶ暇があるからである。二人はその間気が付かずにゐたものと見える。窓の外の戸を撥ね返した音は聞えた筈だが、親子は風にあ
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