諱B我々は君をどうもしようと思つてゐるのではない。フランスの一男子として君に誓つても好い。僕だつてあの病院横町の犯罪が君の責任だとは思つてゐない。併し君があの事件に関係してゐると云ふことだけは分かつてゐるのだ。僕の広告を見ても分かるだらうが、僕がどれだけの事を知つてゐて、又これから先探らうと思へばどれだけの事を探る手段を持つてゐると云ふ想像は君にも付くだらう。まあ、砕いて話せばかうだね。君は何も悪い事をしたのではない。又させたのでもない。君はあの場合に物を取らうと思へば取られたのだが、それを取らなかつた。だから何も君が隠し立てをする必要がない。併し君の知つてゐるだけの事は言はないではならないのだ。あの事件の為めに無実の罪を蒙つて牢屋に這入つてゐる人があるのだからね。」
ドユパンがこれだけの事を言つてゐるうちに、水夫は余程気色を恢復したが、この室に這入つて来た時の勇気はもう無かつた。水夫は暫くして云つた。
「いや。わたしの知つてゐるだけの事は話しませう。併しあなたがそれを半分でも本当だと思つて下されば結構なのです。わたし自分でさへ※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]のやうに思はれるのですからね。その癖あの事件はわたしの知つた事ではないのです。まあ、首に掛かるかも知れないが、実際の所を話しませう。」
水夫の話は大略かうである。水夫は近頃東印度群島へ往つた。その時ボルネオに上陸して仲間と一しよに山に這入つた。そして今一人の男に手伝つて貰つて、猩々を生捕つた。その男は死んだ。そこで猩々は自分一人の所有になつた。猩々は中々馴れないので帰途には随分困つた。併しとう/\パリイへ連れて戻つた。水夫は船にゐた時足を怪我をして、それを直す為めに医者の所へ通はなくてはならぬので、猩々を部屋に閉ぢ籠めて置いて、足の創が直つてから売らうと思つてゐた。さてあの殺人事件のあつた夜の事である。否、払暁の事である。水夫は仲間の会があつて、それに出席して払暁に帰つて来た。すると猩々が閉ぢ籠めてあつた室から脱け出して、寝部屋に来てゐた。そして鏡の前に坐つて、顔に石鹸のあぶくを一ぱい付けて、手に剃刀を持つて、髭を剃る真似をしてゐた。多分水夫が顔を剃つた時、鑰前の孔から覗いて見てゐて、その真似をするのだらう。気の荒い、力のある動物の手に剃刀を取られてゐるので、水夫はどうしようかと暫く思案し
前へ
次へ
全32ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング