を口に出させずにゐた。
 或る日己はヲレダンに逢つた。ヲレダンはレオネルロはどうしてゐるかと問うた。丁度レオネルロが己の館に住むことになつてから、暫く立つた時の事である。ヲレダンは己の返事を聞いた後に、毒々しい笑をして、「暗い所では用心してゐ給へよ」と云つた。己は胸を裂かれるやうな気がした。レオネルロとの交誼を傷ける詞だからである。
 レオネルロは己の憂鬱が日々加はるのを見て、己に旅行を勧めた。理由として言つたのは、ロオマに用事があると云ふことゝ、それからパレルモから手紙が届いて、急に帰つて貰ひたいと云つて来たと云ふこととの二つである。己はレオネルロが只此土地を離れようとしてゐて、口実を設けるのだと悟つたが、それを色にあらはさずに、其表面の理由を信ずるやうに粧《よそほ》つた。己は実にヱネチアの生活が厭になつてゐた。館に近いサン・ステフアノ寺の鐘の声は己の心を戦慄させる。それは悲惨なアルドラミンの事を憶ひ起させるからである。己はレオネルロの勧誘に応じて、少しばかりの旅の支度をして、あの波に洗はれて窪んでゐる館の石級を降りた。其時己は度々アルドラミン家の白い石壁を振り返つて見た。赤い大理石
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