坊に案内させて、別荘の間毎《まごと》の戸を開けさせて見た。併し己を不思議な目に合せて、続いて老人が手紙で注意してくれたやうな運命に陥いれた、例の部屋は見附からなかつた。どの部屋へも窓から日が一ぱいにさし込んでゐる。どの部屋も秩序と平和との姿を見せてゐる。己は記憶のある鏡の広間に食事を出させて食べた。その時己は考へた。この一切の事件は悉《こと/″\》く己の妄想の産み出した架空の話ではあるまいか。あの日に飲んだジエンツアノの葡萄酒に酔つて見た夢ではあるまいかと考へた。バルヂピエロのをぢさんのよこした手紙だつてあの日の笑談《ぜうだん》の続きだと思はれぬこともない。無論をぢさんは死んだには違ひない。併しあの年になれば死ぬのは当然《あたりまへ》である。何も誰かがわざ/\手段を弄してそれを早めたと見なくてはならぬことは無い。己はこんな風に考へて疑問の解決を他日に譲ることにした。
 ヱネチアに帰つてから己の最初に尋ねたのは、ロレンツオよ、君だつた。丁度昔のやうに、己は波にゆらいでゐるゴンドラの舟を離れて、水に洗はれて耗《へ》つた、君が館の三段の石級を踏んだ。丁度昔のやうに、己が石級の上から君の名を呼
前へ 次へ
全50ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング