た。己はそれを拾ひ上げて手まさぐつた。貨幣はヱネチア共和政府の鋳造したもので、羽の生えた獅子の図がある。その時己の目の前に料《はか》らずもヱネチアが浮かんだ。幾条かの運河が縦横に流れ、美しい天が晴れ渡つてゐる。そこには宮殿があり、鐘楼がある。そこにはアルドラミン家の館の淡紅色の大理石の花形がある。そして、ロレンツオよ、君の住んでゐる館の赤み掛かつた壁と水に漬《つか》つた三段の石級《せききふ》とがある。己は忽然として又リワ・スキアヲニに立つてゐる。遊歴を思ひ立つた其日のやうに、立つてゐる己の傍にはバルビさんが立つてゐる。ラグナの澄み切つた空気を穿つて、大きい白い鴎が飛んでゐる。バルビさんは鳩に穀物を投げて遣つてゐる。鳩は皆餌に飽いて、むく/\と太つてゐる。己はその鳩の一羽を手の平に載せてゐるやうな気がした。その鳩は白くて温かで、吭《のど》の下に丁度匕首で刺されたやうな、血痕のやうな、赤い斑を持つてゐる。
 二三週の後には己はもうイタリアへ帰る途中にゐた。此旅行にはなんの故障もなかつた。己はバルヂピエロの譲つてくれた別荘に泊つた。丁度その日は天気が好くて、庭には花の香が満ちてゐた。己は黒ん
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