あの美しい荘園を受け取りに往くことを急がなかつた。なぜと云ふに、丁度その時己は或る地位の高い夫人に対して恋をしてゐて、それに身を委ねて飽くことを知らなかつたからである。夫人の恋愛は己に総ての事を忘れさせた。バルヂピエロが遺贈の事も、久しく故郷を離れてゐると云ふ事も、警戒を与へられてゐる脅迫の事も忘れさせた。現在の恋愛に胸を※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26、102−下−11]《えぐ》るやうな鋭さがあり、身を殺すやうな劇烈な作用があつて見れば、何も未知の女の己の上に加へようとする匕首《ひしゆ》や毒薬を顧みるには及ばない。
この不幸な恋をのがれようとして、己は一時旅などをしたこともある。そのうち一年ばかり立つた。或る時己は忽然本国が見たくなつた。中にも見たかつたのはヱネチアである。丁度その時己はアムステルダムにゐた。あそこは幾多の運河が市を貫いて流てゐる所丈恋しいヱネチアに似てゐるが、土地の美しさも天の色も遙かに劣つてゐる。己は博奕の卓に向つて坐して、勝つたり負けたりしてゐるうちに、ふいと卓に覆つてある緑の羅紗の上に散らばつた貨幣の中に、金のチエツキノが一つ交つてゐるのを見附け
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