た。己は闥《たつ》を排して闖入しようとしたことが二十|度《たび》にも及んだだらう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、己は却つて廊下伝ひに逃げ去つた。なぜかと云ふにあの時御身の顔を見たら、己には御身を殺さずに置くことが出来なかつたからだ。己は自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかつたのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。己の嫉妬は己の気力を恢復せしめた。己はあの時に再生した其気力を使役してゐる。
あの女は漸く自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこで己は女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌めた無数の鏡は、女の艶姿《えんし》嬌態《けうたい》を千万倍にして映じ出だした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。己が晩年に贏《か》ち得た、これ程の楽しい月日は、総て是れ御身の賜ものだ。己は折々女と一しよにあの岩窟《いはむろ》に入《い》ることがある。其時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優つて聞える。己は幸福の身となつた。女は己に略奪せられたことをも、過度の用心のために己に拘禁せられてゐたことをも、最早遺恨とはしないらしかつた。今の新生活が女
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