のだ。己はあの鏡の間で御身と対坐した時、あの美しい囚人のゐる密室を、御身がために開かうと決心した。己はあの女に、あいつの運命が全く我手に委ねられてあると云ふことを、此処置で見せ附けて遣る積りであつた。それと今一つの己の予期した事がある。それはあの女が御身に身を委せたと知つたら、己の恋が褪めるだらうと云ふことであつた。己の既往の経験によれば、己は自分の好いてゐる女が別の男に身を委せたと知ると、己の恋は大抵褪めた。畢竟《ひつきやう》情人の不実を知ると云ふことは、恋を滅す最好の毒である。そして御身は苦もなく己がために此毒を作つてくれるだらうと、己は予期したのだ。
己が御身の肩を押して、御身をあの暗室に入《い》らせたのはかう云ふわけであつた。然るになんと云ふ物数奇か知らぬが、己はふとあの暗室の戸口に忍び寄つて、扉に耳を附けて偸聴《たちぎき》をする気になつた。御身等二人の格闘、あの女の降服、呻吟が己の耳に入つた。戦は反復せられる。暗中の鈍い音響が聞える。あゝ、此時己は意外の事を感じた。形容すべからざる嫉妬の念が、老衰した己の筋肉の間を狂奔して、その拘攣《こうれん》してゐた生活力を鞭うち起たしめ
前へ
次へ
全50ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング