は柑子の香が籠つてゐる。
己の馬車には馬が附けて中庭に待たせてある。己は車に乗つた。そして車が動き出すと共に、己はぐつすり寐入つた。
バルヂピエロの別荘での不思議な遭遇は、己を夢のやうな状態に陥いらせた。旅の慰みが次第に此夢を醒した時、己は其顛末を考へて見て、どうした事か分からぬやうに思つた。又それをどうして分からせようと云ふ手段も、己には見出されない。一体あの沈黙した未知の女は誰だつたか。それに対してバルヂピエロの取つた手段にはどう云ふ意味があつたのか。主人があの女を憎んで己を復讐の器械に使つたのだらうか。それとも主人はわざと只周囲の状況を秘密らしくして、己にする饗応に味を加へたまでの事か。
己はミラノへ来た。滞留が長引いた。己は上流の人達と一しよに遊び暮らした。己を優待してくれた女は大勢ある。その中で己を一箇月以上楽ませてくれたのが一人ある。其女は己に自分の内で逢つたり、芝居で逢つたり、又己と一しよに公園を散歩したりした。夜|燭火《ともしび》の下で逢ふ時は、其女は顔をも体をも己に隠さなかつた。そのうちにバルヂピエロの別荘にゐた未知の女の俤は、己の記憶の中で次第に朧気になつて、
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