の二つの花形が雨に洗はれたのが、二つの創の新しい瘢痕のやうに見えた。
レオネルロと己とは一つ馬車に乗つた。二人はピエンツアに泊る筈であつたのに、市より余程手前で日が暮れた。そこはひどく暗いピニイの林の中であつた。今少しで林を出離れようとした時、恐ろしい叫声が聞えた。一群《ひとむれ》の剽盗《おひはぎ》が馬車を取り巻いた。中にも大胆な奴等が馬の鼻の先で松明《たいまつ》を振ると、外の奴等は拳銃の口を己達に向けた。己達の連れてゐた家隷《けらい》は皆逃げてしまつた。
己達は囲《かこみ》を突いて出ようとしたが、二人の剣は功を奏せなかつた。己は造做《ぞうさ》もなく打ち倒されて、猿轡を嵌められ布で目隠しをせられた。己はまだレオネルロが賊を相手にして切り合つてゐるのを見ながら、目隠しをせられたのである。賊の二人が己の頭と足とを持つて、大ぶ遠くへ己を運んで行つて、それから己を下に置いた。己が起ち上がると、賊は己の肩を撲《う》つて追ひ立てた。足の踏む所は一面に針葉樹の葉で掩はれてゐて、すべつて歩きにくかつた。暫く歩かせた後、賊は己の衣服を剥いで、己をピニイの木の幹に縛り附けた。己の背は木の皮でこすられて、肌には樹脂《やに》が黏《ねば》り附いた。
己の周囲に足音がした。多分レオネルロを己と同じ目に逢はせるのだらう。どうもそれにレオネルロが抗抵するらしい。己のやうに賊のする儘にさせてゐないらしい。物音で判断すると、さう思はれるのである。己はレオネルロが抗抵して、ひどい怪我をしないと好いがと思つた。こんな時には敵対しないで、人のするやうにさせてゐるが好い。避けられぬ事を避けようとしたつて、なんの役にも立たぬからと、己はレオネルロに忠告したかつたが、猿轡を嵌められてゐるので、詞を出すことが出来なかつた。
暫くして周囲がひつそりした。己は賊等が目的を達してしまつたのだなと思つた。その時突然大勢が何やらどなりながら大声で笑ふのが聞えた。併しそれは只一刹那の事で、其跡は又ひつそりした。己は賊等が為事《しごと》をしおほせて満足して逃げたなと思つた。風が静かに木々の頂《いただき》をゆすつてゐる。夜の鳥が早い、鈍い羽搏《はゞたき》をして飛んで行く。そして折々ピニイの木の実が湿つた地に墜ちる音がする。
己とレオネルロとの二人は寂しい林の真ん中にゐるのだ。一人々々ピニイの木の幹に縛り附けられてゐるのだ。此境遇は随分悲惨であるが、己はそれを考へるよりは、どうにかして今の苦痛を軽減しようと工夫した。幸な事には目隠しの布が少し弛んだので、己は次第にそれをゐざらせて、とう/\ずば抜けさせた。そして己はあたりを見廻した。
地に插した一本の松明が今少しで燃えてしまふ所である。そのゆらめく※[#「左側がクの下に臼、右側が炎」、第3水準1−87−64、111−上−9]がピニイの木の赤い幹を照す。それに裸体の人が縛り附けられてゐる。レオネルロであらう。忽ち一陣の風が吹いて来て、松明がぱつと明るくなつた。レオネルロに違ひない。闇夜を背景にして白皙な体が浮いて見える。併しこれは夜目の迷であらうか。まやかしの幻影であらうか。その体は女の体である。併し女の体でゐて、矢張レオネルロである。顔はそむけてゐて見えない。見えるのは只髪を短く刈つた頭と項《うなじ》と丈である。併し体は女で、それがレオネルロに違ひない。木の幹を攫むやうにしてゐる、小さい、優しい手は、見覚えのあるレオネルロの手である。
女だ。思ひ掛けぬ発見は残酷にも己の心を掻き乱した。そして恐ろしい疑念を萌さしめた。女であつたか。併しなぜ男装してゐたのだらう。なぜそんな秘密をしてゐたのだらう。女であつた。レオネルロが女であつた。あゝ、匕首の一えぐり。紅《くれなゐ》の創口。アルドラミン。
松明は次第に燃え尽した。猿轡は己の口を噤ませてゐても、己の頭には思想が相駆逐してゐる。此思想は初め生じた時|糾紛《きうふん》して曖昧であつたが、それが次第に透徹になつて来た。事実の真相が露呈して来た。そして己はアルドラミンの口から、今己の話した通りの事を聞くやうな気がした。
夜《よ》が明けて樵夫《きこり》が一人通り掛かつた。それが己の繩を解いてくれた。その時は己は苦痛と疲労とのために失神してゐたのである。己は気が附いて見ると、地に僵《たふ》れてゐた。己の目はすぐにレオネルロに似た裸体の女の縛り附けられてゐたピニイの木を尋ねた。併しもうそこには姿が見えなかつた。察するに其人は夜の明けぬ間に繩を抜けて逃げたのだらう。己は木の下に歩み寄つた。一箇処繩で摩《す》られて、木の皮が溝のやうに窪んでゐた。そして木の根にはちぎれた繩が落ちてゐた。樵夫はそれを拾つて嚢《ふくろ》に入れた。薪を束ねる料にしようと思つたのだらう。己は黙つて樵夫に附いて小屋まで往つて、
前へ
次へ
全13ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 林太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング