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 蝋燭が附いてから、己達がバルタザル・アルドラミンを抱き起して見たら、その胸には一つの匕首が深く刺し貫いてあつた。その尖は心の臓を穿つたと見えて、アルドラミンは即死してゐたのである。

     四

 我々七人の客はあつけに取られて、身動きも出来ずに、屍骸《しがい》の周囲に立つてゐた。七人と云ふのはルドヰコ・バルバリゴ、ニコレ・ヲレダン、アントニオ・ピルミアニ、ジユリオ・ボツタロル、オクタヰオ・ヱルヌツチ、それからレオネルロと己とである。どれもどれもアルドラミンの親友で、愛したり愛せられたりしてゐるのだから、一人として危険を冒しても此別荘の主人の性命を救つて遣りたいと思はぬものは無い。我々は互に嫉妬などをし合つたことが無い。喧嘩と云ふ程の衝突をもしたことが無い。我々の間には只敬愛の情があつた丈である。
 さうして見れば、アルドラミンは自殺したに違ひ無い。此男の性命を絶つた鋭い匕首は、自分で胸に刺し貫いたものに極まつてゐる。併しなぜこんな事をして死んだのだらうか。年はまだ若い。財産はある。幸福に暮らしてゐる。かうした身の上でゐて、我々一同にどんな憂悶を隠してゐたのだらうか。我々はどう考へて見ても解決が附かぬので、皆眉を顰《ひそ》めてゐた。我々は早速支度をして、亡き友の死顔を石膏型に取つたが、その型の石膏と同じやうに、皆の顔には血の色が無かつた。
 どうしてもアルドラミンは自殺したとより外思ひやうが無い。我々は只いつ迄も死骸を目守《まも》つてゐる。そのうち我々一同の中に同時に恐るべき、非常な疑惑が生じて来た。それは一応自殺らしくは見えるものの、ひよつとしたら我々の中の一人が窓を閉ぢ窓掛を卸した闇を利用して、アルドラミンを刺したのかも知れぬと云ふ疑惑である。人間の心は秘密を蔵してゐるものである。世間には隠蔽せられてゐる事が沢山ある。併しそれにしても其|刺客《せきかく》は誰だらう。誰がこれ程の陰険な事を敢てしただらう。あれだらうか。これだらうか。
 誰の胸の中にも不安の念がひそやかに萌して来た。そして互に相猜疑《あひさいぎ》して、平気で目を見合せることが出来なくなつた。我々は物を探る様な目なざしをして鏡の影を見た。鏡の一面毎に我々の顔とアルドラミンの死骸とが変つてうつつてゐる。そしてその死骸が我々の中の誰をも皆仇敵として指さしてゐるかと思はれる。
 アルドラミンの死骸はサン・ステフアノの寺に葬られた。両手を赤い創の上に組み合はせて葬つたのである。葬式が済んでからも我々は同じ疑惑を除くことが出来ない。バルバリゴだらうか、ヲレダンだらうか、ピルミアニだらうか、それともボツタロルだらうか。我々は出逢ふ度毎に猜疑の念を起さずにはゐられない。握手するにも気が置かれてならぬ。
 絶えずかう云ふ不安の念に悩まされて、次第に双方機嫌の悪くなつたバルバリゴとボツタロルとは、とう/\争論をして決闘することになつた。争論の生じた真の原因は公に言はれぬので、二人は詰らぬ尾籠な事を表向の理由にした。ボツタロルは負傷した。バルバリゴはそのために大陸へ逃亡しなくてはならなくなつた。
 己は深い悲みに沈んだ。それはアルドラミンの死を忘れることが出来ぬからである。レオネルロは己を慰めようとした。種々《しゆ/″\》の楽器を弄することが上手なので、その音色で己の鬱を散じてくれようとした。己とレオネルロとは相変らず毎日逢つてゐる。此男を疑ふ念は一|度《たび》も己には萌さなかつた。此男は物柔なのと物事を打ち明けるのとで、己を陰気な思想に耽らせぬやうにして、己の絶えず胸に思つてゐる事を口に出させずにゐた。
 或る日己はヲレダンに逢つた。ヲレダンはレオネルロはどうしてゐるかと問うた。丁度レオネルロが己の館に住むことになつてから、暫く立つた時の事である。ヲレダンは己の返事を聞いた後に、毒々しい笑をして、「暗い所では用心してゐ給へよ」と云つた。己は胸を裂かれるやうな気がした。レオネルロとの交誼を傷ける詞だからである。
 レオネルロは己の憂鬱が日々加はるのを見て、己に旅行を勧めた。理由として言つたのは、ロオマに用事があると云ふことゝ、それからパレルモから手紙が届いて、急に帰つて貰ひたいと云つて来たと云ふこととの二つである。己はレオネルロが只此土地を離れようとしてゐて、口実を設けるのだと悟つたが、それを色にあらはさずに、其表面の理由を信ずるやうに粧《よそほ》つた。己は実にヱネチアの生活が厭になつてゐた。館に近いサン・ステフアノ寺の鐘の声は己の心を戦慄させる。それは悲惨なアルドラミンの事を憶ひ起させるからである。己はレオネルロの勧誘に応じて、少しばかりの旅の支度をして、あの波に洗はれて窪んでゐる館の石級を降りた。其時己は度々アルドラミン家の白い石壁を振り返つて見た。赤い大理石
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