ぶと、君はすぐに返事をした。己は白状するが、あの時己は予期しなかつた嫉妬を感じた。それは君が昔のやうに独りでゐないで、青年紳士と一しよにゐたからである。己が這入つて行くと、その紳士が立ち上がつた。紳士は可哀《かはい》らしくて、上品な体附きをしてゐた。己の這入つたのを見て、紳士は手に持つてゐた楽器を、気の無いやうな表情をして、無造做《むざうさ》に卓の上に投げて、心から相許した友達同志が互に顔色を覗ひ合ふやうな様子で、君の顔を見た。己は初の間此人のゐるのを稍《やゝ》不快に感じた。それは此人が君の親友になつてゐて、己が独りで占めてゐるやうに思つた地位を奪つたらしく見えるからであつた。併し己はこの最初の感情に打勝つた。己はかう思つたのである。己は長い間留守を明けてゐた。長い間君に背いて交情を曠《むなし》うしてゐた。さうして見れば、己の不実にも放浪生活をしてゐた間、此人が君を慰めてくれたのは、感謝しなくてはならぬ事だと思つたのである。そこで己は青年紳士に好意を表した。紳士は十分に品格と礼節とを備へた態度を以て己に接した。そして君は紳士と己との二人の手を一つにして握つてくれた。
 そんなわけで、君が彼青年紳士レオネルロの友人になつたやうに、己も亦あの人の友人になつた。己は君がどうしてあの人と相識になつたかと云ふ来歴を聞いた。レオネルロはパレルモに生れたのだ。それを両親が当世風の生活に慣れさせるためにヱネチアに来させたのだと、レオネルロが自ら語つた。もう此土地に来てから一年ばかり立つてゐて、レオネルロはどうやら此土地を第二の故郷にして、パレルモの事を忘れてしまつたらしかつた。レオネルロは全くシチリア風の特徴を具へた美少年である。目は生々として表情に富んでゐる。鼻には上品な趣がある。口も人に気に入る恰好をしてゐて、髭は少しも生えてゐない。それに歩く様子がひどく好い。それから手のひどく小さいのを己は珍らしく思つた。段々心安くなつて見ると、温和と謙遜との両面から見て、あの人の性格がいかにも懐かしかつた。あの人は女好では無い。わざとらしく女に接近することを避けてゐた。宗教の信者だらうと思はれた。併し君と己とが遊ぶ時は、あの人も一しよになつては遊ばぬまでも、傍看者として附き合つて丈はくれた。
 己達は又青春の最も美しい快楽を味ひ始めた。君と己とのはもう行楽の時代が過ぎ去らうとしてゐるのに、あの人のはまだ水の出端《でばな》である。それにあの人が控目にしてゐるのだから、君と己とはそれを手本にして節制を加へなくてはならなかつたが、二人にはそれが出来ぬのであつた。己達は昔のやうに又島の倶楽部の卓を囲むことになり、それよりは屡《しば/\》博奕の卓を囲むことになつた。紙で拵へた仮面は己達の顔を掩つた。己達は興を縦《ほしい》ままにした。一体ヱネチアと云ふ土地ではさうせずにはゐられぬ事になつてゐる。君も己もヱネチアの子だから為様《しやう》が無い。二人の痴戯《ちき》を窮めるのを見て、レオネルロは微笑《ほゝゑ》んだ。
 そのうちに千七百七十九年のカルネワレの祭日が来た。祭日は例年よりも華美で賑かであつた。遊びは厭きる程ある中に、己達は一日を己の別荘で暮らすことにした。先づそれ丈の約束をして置いて、己は先へ別荘に来て、準備をした。翌日は君とレオネルロと二三の親友とが来る筈である。その又次の日には大勢の客が案内してある。寒気が珍らしく軽いので、大勢の客の来る日には、暮れてから庭で遊びをすることにしてある。己はそれが余程立派になることを期待してゐた。
 君は約束の日に期を愆《あやま》らずに来てくれた。一しよに来たのは、兼て極めてあつた五人の友達である。君達は皆仮装をして、それを一輛の美しい馬車が満載して来た。そこで己は君達を別荘の所々《しよ/\》に連れて廻つて、あすの遊びの準備を見せた。あすの晩には、庭の岩窟《いはむろ》に蝋燭を焚いて舞踏会をして、それから鏡の広間で宴会をしようと云ふので、己は君達と種々《しゆ/″\》の評議をして、今宵は明かりの工合を試験して置くと云ふことになつた。己はレオネルロと臂を組み合せて鏡の広間に立つてゐた。レオネルロは笑ひながら仮面を扇のやうにして顔のほてりをさましてゐた。己は中央に吊る燭台の明かりをためすために、窓を締めて窓掛を卸すことを、家隷《けらい》共に命じた。真つ暗でなくては、明かりの工合が分からぬからである。窓を締め窓掛を卸して、蝋燭がまだ附かぬので、広間が一刹那真の闇になつた。己達はその中に立つてゐて、己は家隷共に明かりの催促をした。「早くしないか。いつまでも暗くしてゐては困るぢやないか」と云つたのである。その時突然己は或る冷やかな尖つた物が胸を貫いて、己の性命の中心に達し、己の口一ぱいに血が漲るのを感じた。

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