手で十字を切つた。下顎が熱病病みのやうにがたがた顫えてゐる。
 ソロドフニコフの為めには、一切の事が夢のやうである。その癖かういふ場合にすべき事を皆してゐる。文案を作る。署名する。はつきり物を言ふ。プリスタフの問に答へる。併しそれが皆器械的で、何もかもどうでも好い、余計な事だといふやうな、ぼんやりした心理状態で遣つてゐる。又しては見習士官の寝かしてある寝台へ気が引かれてならぬのである。
 ソロドフニコフはこの時はつきり見習士官ゴロロボフが死んでゐるといふことを意識してゐる。もう見習士官でもなければ、ゴロロボフでもなければ、人間でもなければ動物でもない。死骸である。いぢつても、投げ附けても、焼いても平気なものである。併しソロドフニコフは同時にこれが見習士官であつたことを意識してゐる。その見習士官がどうしてかうなつたといふことは、不可解で、無意味で、馬鹿気てゐる。併し恐ろしいやうだ。哀れだ。
 かういふ悲痛の情は、気の附かないうちに、忽然浮かんで来た。
 ソロドフニコフはごくりと唾を呑み込んで、深い溜息をして、その外にはしやうのないらしい様子で、絶望的な泣声を立てた。
「水を」と、プリスタ
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