茶色のジヤケツはどこにも見えない。
 駅夫がどこかの待合室を覗いて、なんとか地名を呼んだ。そしてがらん/\と、けたゝましく鐸《ベル》を振つた。それから同じ地名を、近い所で呼んだ。それから又プラツトフオオムへ出て、もう一度同じ地名を呼んだ。厭な鐸の音が反復して聞える。
 フリツツは踵《くびす》を旋《めぐ》らして、ポツケツトに両手を入れた儘、ぶら/\広場へ戻つて来た。心中非常に満足して、凱歌を奏するやうに、「茶色のジヤケツはどこにも見えない」と思つて見た。「来ないには極まつてゐる。己には前から分かつてゐた。」
 なんだかひどく気楽な心持になつて、或る柱の背後《うしろ》へ歩み寄つた。一体午前六時の汽車といふのはどこへ行くのか見ようと思つたのである。そして器械的に種々な駅の名を読んで、自分がたつた今|転《ころ》ばうとした梯子段を、可笑しがつて見てゐる人のやうな顔をしてゐた。
 その時床の石畳みの上を急ぎ足で来る靴の音がした。
 フリツツがふいとその方角を見ると、茶色のジヤケツを着た、小さい姿が、プラツトフオオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上にゆらめいてゐる薔薇の花も見えたのである。
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