断の話の、穏な調子を破つて、何物かゞ暴露しさうになつて来る。猛烈な意志の力で、或る苦《にが》い、悲しい係恋《あこがれ》じみたものの現はれようとするのを抑へてゐるらしく見える。
 この或る物はなんだらう。己は最初それを知らなかつた。ワシリが来て泊つた頃にはまだ解決が付いてゐなかつた。併し今は好く分かつてゐる。流浪が習慣になつた人間は、衣食に苦しまずに平和に生活して、家もあり、牝牛もあり、牡牛もあり、厩に馬もあり、人に尊敬せられてゐるので、それで己は満足だと強ひて己《おのれ》を欺かうとしてゐる。ところが他国へ来てこんな灰色の生活を営むのが、人に満足を与へはしない。心の奥から山林の恋しさが頭をもたげる。その係恋が今の単調な日常生活を棄てて、怪しく人を誘《いざな》ひ、人を迷はせる遠い所へ行かせようとする。この心持が意識に上るのを、強ひて自ら押へてゐる。これがかういふ流浪人の心の底に持つてゐる或る物である。併しそれを己の知つたのは余程後の事である。ワシリが己の天幕に泊つた頃は、どうも上辺の落ち着いてゐる、この流浪人の心の底には何か知らぬものがあつて、悩み悶えて、外へ現はれようとしてゐるといふだけ
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