己はあいつの事をこんなに思ふだらう。どうしようと云ふのだらう。己は自分の身の始末を付けなくてはならないのだつけ。」かう思ふと又気味が悪くなる。そこでその気味悪さを忘れようとしては、又パシエンカの事を思ふ。
 こんな風で長い間セルギウスは横になつてゐた。その間始終自分のすぐ死ななくてはならぬ事を思つたり、又パシエンカの事を思つたりしてゐる。そしてどうしてもパシエンカが自分の救の端緒になりさうに思はれるのである。とう/\セルギウスは又眠つた。その時夢に天使が現れて云つた。「パシエンカの所へ往け。そして何をして好いか問へ。お前の罪がどんなもので、お前の救はどこにあるか問へ。」
 セルギウスは覚《さ》めた。そして夢に見た事を神の啓示《けいじ》だと思つた。そして気分が晴やかになつて、夢の中の教の通りにしようと決心することが出来た。セルギウスはパシエンカの住んでゐる町を知つてゐる。ここから三百ヱルスト許の所である。そこでその町へ向いて歩き出した。

     六

 勿論パシエンカはもう疾《と》つくに昔の小娘ではなくなつてゐる。今の名はブラスコヰア・ミハイロフナと云つてゐる。大分年を取つた、乾からびた、皺くちや婆あさんである。堕落した飲んだくれの小役人マフリキエフの為めには姑《しうとめ》である。
 パシエンカは婿が最後に役人をしてゐた地方の町に住んで、そこで手一つで一家族の暮しを立てゝゐる。家族は娘と、神経質になつた、病身の婿と、孫五人とである。パシエンカの収入は近所の商人の娘達に、一時間五十コペエケンで音楽を教へるより外ない。勉強して一日に少くも四時間、どうかすると五時間も授業するので、一箇月六十ルウブル近い収入になる。それをたよりに、右から左へと取つたものを払ひ出して、その日その日を過しながら、いつかは婿が又新しい役目を言ひ付かるだらうと心待に待つてゐる。パシエンカはどうぞ婿を相当な地位に世話をして貰ひたいと、親類や知る人のある限り依頼状を書いて出した。セルギウスにも出した。併しその依頼状はセルギウスが草庵を立ち退いた跡へ届いた。
 土曜日の事である。パシエンカは乾葡萄を入れた生菓子を拵へようと思つて、粉を捏《こ》ねてゐた。これは昔父のゐた時代に置いてゐた料理人が上手に拵へたので、それを見習つてゐるのである。まだ奴隷制度のあつた時で、此料理人は奴隷であつた。パシエンカは此菓子を拵へて、日曜日に孫達に食べさせようと思つてゐる。
 丁度娘マツシヤは一番小さい孫を抱いてゐる。この抱いてゐる子の外の四人《よつたり》の中で、上の方の二人は学校に往つてゐる。その二人は男の子が一人に娘が一人である。婿は昨夜寝なかつたので、昼寝をしてゐる。
 パシエンカも昨夕《ゆうべ》は大分遅くなつて床に這入つた。それは婿のだらしのない事に就いて娘が苦情を云ふのを宥《なだ》めなくてはならなかつたからである。パシエンカの目で見れば、婿は体が弱くなつて次第に衰へて行くばかりで、これから身を持ち直すことが出来さうにはない。幾ら娘が彼此苦情を言つたつて駄目である。そこでパシエンカは極力娘の苦情を抑へて、夫婦の間の平和と安穏とを謀つてゐる。パシエンカは生得《しやうとく》人の不和を平気で見てゐることが出来ない。人が喧嘩をしたつて、それで悪い事が善くなる筈がないと信じてゐるのである。併しそんな事を別段筋を立てゝ考へはしない。人の腹を立つたり、喧嘩をしたりするのを見てゐるのが厭なので、それを止めさせようとしてゐるばかりである。その厭さ加減は臭い匂や荒々しい物音や、又自分の体に中る鞭ほど厭なのである。
 パシエンカが今台所で、粉に酵母《もと》を交ぜて捏ねることを女中のルケリアに教へてゐると、そこへ六つになる孫娘のコリヤが穴の開いた所へ填め足しをした毛糸の靴足袋を、曲つた脛に穿いて、胸に前垂を掛けて、何事にかひどく驚いた様子で駆け付けて来た。「お祖母《ば》あさん。恐ろしいお爺いさんが来て、お祖母あさんにお目に掛かりたいつて。」
 ルケリアが外を覗いて見た。「ほんに巡礼らしい爺いさんが参つてゐます。」
 パシエンカは痩せた臂に付いた粉を落して、手尖の濡れたのを前掛で拭いた。そして部屋に往つて五コペエケンを一つ持つて来て遣らうと思つた。併しふと銭入に十コペエケンより小さいのがなかつた事を思ひ出して、それよりはパンを一切遣る事にしようと思案して、押入の方へ往つた。ところがまだパンを出さぬうちに、少しばかりの銭を惜んだのが恥かしくなつて、パンを切つて遣る事は女中に言ひ付けて置いて、その上に十コペエケンをも取りに往つた。「これが本当に罰が当つたと云ふものだ。ちよいと吝《けち》な考を出したゞけで、遣る物は倍になつた。」パシエンカは心中でかう思つた。
 パシエンカは「余り少しだが」と断を云つて、パンと銭とを巡礼に遣つた。それは巡礼の姿を見ると、如何《いか》にも立派な、品の好い人柄であつたので、初め思つた倍の物を遣りながら、それを息張《いば》つて遣るどころではなく、実際まだこれでは余り少ないと、恥かしく思つたのである。
 セルギウスは三百ヱルストの道を乞食をして来た。痩せた体に襤褸《ぼろ》を纏つて埃だらけになつてゐる。髪は短く切つてある。足には百姓の靴を穿いて、頭には百姓の帽子を着てゐる。それが叮嚀に礼をした。それでも今まで国内の四方から幾人となく来た人を心服させただけの、威厳のある風采は依然としてゐるのである。
 併しパシエンカは此巡礼が昔のステパンだと云ふことを認める事が出来なかつた。大分年を隔てゝゐるのだから無理はない。「若しお腹《なか》がすいてお出なさるなら、何か少し上げませうか。」
 セルギウスは黙つてパンと銭とを受け取つて、パシエンカの詞には答へずにゐる。併しその儘立ち去らうとはしないで、パシエンカの顔をぢつと見てゐる。
 パシエンカは不思議に思つた。
「パシエンカさん。わたしはあなたの所へ尋ねて来たのです。少しお願があつて。」セルギウスはかう云つた。美しい目の黒い瞳は動かずに、物を歎願するやうにパシエンカの顔に注がれてゐる。そのうちその目の中に涙が湧いて来る。そして白くなつた八字髭の下で唇がせつなげに震えて来る。
 パシエンカは痩せた胸を手で押へた。そして口を開いて、目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、呆れて乞食の顔を見詰めた。「まあ。あんまり※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]のやうですが、あなたでしたか。ステパンさんでせうか。いえ。セルギウス様でせうか。」
「さうですよ。ですがあなたの言つてゐられるその名高いセルギウスではありません。わたしは大いなる罪人《つみびと》ステパン・カツサツキイです。神様に棄てられた、大いなる罪人です。どうぞわたくしを助けて下さい。」
「まあ。どうしてそんな事がわたくしなんぞに出来ませう。なぜあなたそんなにおへり下りなさいますの。まあ、兎に角こちらへ入らつしやいまし。」
 セルギウスはパシエンカの差し伸べた手には障《さは》らずに、跡に付いて上つて来た。
 パシエンカはセルギウスを上らせはしたが、どこへ連れ込まうかと思ひ惑つた。家は小さい。最初此家に来た頃は、ほんの物置のやうな所ではあるが、角《かど》の一間だけ自分の居間にして置いた。併しそれも後に娘に遣つてしまつた。今そこではマツシヤが赤ん坊を抱いて寐入らせようとしてゐるのである。「まあ、こちらへでもお掛下さいまし。」かう云つてパシエンカは台所のベンチを指さした。
 セルギウスはベンチに腰を掛けた。そして背中に負つた袋を、まづ片々《かた/\》の肩からはづして、それから又外の肩からはづした。もう此袋のはづし方には馴れてゐるのである。
「まあ。まあ。尊いあなた様がどうしてそんなにおへり下りなさいますのでせう。あんなに名高くなつてお出なさる方が、出し抜けにそんな。」
 セルギウスは返事をしない。そして優しく微笑みながら、はづした袋を脇に置いた。
 パシエンカは娘を呼んだ。「マツシヤや。此方がどなたゞか、お前知つてゐるかい。」かう云つて置いて娘にセルギウスの身の上を囁いた。
 それから母と娘とは角の部屋から寝台《ねだい》と揺籠《ゆりかご》とを運び出して跡を片付けた。そしてセルギウスをそこへ案内した。「どうぞこゝで御休息なさいまし。わたくしは今から出て参らなくてはなりませんから。」パシエンカがかう云つた。
「どこへお出なさるのです。」
「わたくしは音楽を教へに往きます。まことにお恥かしい事ですが。」
「なに。音楽を教へにお出ですか。結構な事ですね。わたしはたつた一つあなたにお頼み申したい事があるのですが、いつお話が出来ませうか。」
「さやうでございますね。晩にでも伺ひませう。何か御用に立つ事が出来まするやうなら、此上もない為合《しあはせ》でございます。」
「そんならさう願ひませう。それから早速お断をして置きますが、わたしが誰だと云ふことを誰にも話して下さいますな。わたしはあなたにしか身の上が打ち明けたくないのです。まだわたしがどこへ立ち退いたか誰も知らずにゐます。これはさうして置かなくてはならないのです。」
「あら。わたくしつひさつき娘に話してしまひました。」
「なに。それは構ひません。娘さんに人に話さないやうに言つて置いて下さい。」
 セルギウスは靴を脱いで横になつた。前の晩眠らずに、けふ四十ヱルストの道を踏んでゐるので、すぐに寐入つた。
     ――――――――――――
 パシエンカが帰つて来た時、セルギウスはもう目を覚まして待つてゐた。昼食《ひるしよく》は茶の間へ食べに出るやうに勧められても出ずにゐたので、女中のルケリアがスウプと粥とを部屋に運んで食べさせたのである。
 セルギウスはパシエンカの帰つたのを見て云つた。「お約束より早くお帰りでしたね。今お話が出来ませうか。」
「まあ。なんと云ふ難有い事でございませう。あなたのやうなお客様がお出なすつて下さるなんて。わたくしはいつもの稽古を一時間だけ断りました。跡から填合《うめあはせ》をいたせば宜しいのです。わたくしは疾《と》うからあなたの所へ参詣しようと思つてゐました。それからお手紙も上げました。それにあなたの方でお出下さるとは、まあ、なんと云ふ難有い事で。」
「どうぞそんな事を言つて下さるな。それからわたしが今あなたに話す事は懺悔ですよ。死ぬる人が神様の前でするやうな懺悔ですよ。どうぞその積りで聞いて下さい。わたしは聖者ではありません。罪人です。厭な、穢らはしい、迷つた、高慢な罪人です。人間の中で一番悪いものよりもつと悪い人間です。」
 パシエンカは目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、セルギウスの詞を聞いてゐる。セルギウスが真実の話をすると云ふ事が、婆あさんには分つてゐるのである。婆あさんはセルギウスの手を取つて、優しく微笑んで云つた。「でもそれはあんまり大業《おほげふ》にお考へなさるのぢやありますまいか。」
「いや。さうでない。わたしはね、色好みで、人殺しで、神を涜した男だ。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]衝きだ。」
「まあ。どうしたと云ふのでせう。」
「それでもわたしは生きてゐなくてはならない。今までわたしは何事をも知り抜いてゐるやうに思つて、人にどうして世の中を渡るが好いと教へて遣つたりなんかした。その癖わたしはなんにも分つてゐないのだ。そこで今あなたに教へて貰はうと思ふのです。」
「まあ。何を仰《おつし》やるの。それではわたくしに御笑談《ごぜうだん》を仰やるやうにしか思はれませんね。昔わたくしの小さい時も、好くわたくしを馬鹿にしてお遊びなすつた事がありましたが。」
「なんのわたしがあなたに笑談を云ふものですか。わたしは決してそんな事はしない。どうぞあなたは今どうして日を暮してお出だか、それをわたくしに教へて下さい。」
「あの。わたくしでございますか。それは/\お恥かしい世渡をいたしてをりますの。これは皆神様のお罰《ばち》だと存じます。自分でいた
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