した事の報《むくい》だからいたし方がございません。ほんに/\お恥かしい。」
「あなたは夫をお持ちでしたね。その時のお暮しは。」
「それは恐ろしい世渡でございました。最初には卑しい心から、その人の顔形や様子が好きになりまして夫婦になりました。お父う様は反対せられました。それでもわたくしは道理のある親の詞に背いて夫婦になりました。それから夫婦になつたところで、夫の手助けにならうとはせずに、嫉妬を起して夫を責めてばかりゐました。どうもその嫉妬が止められませんで。」
「あなたの御亭主は酒を上つたさうですね。」
「さやうでございます。それを止めさせるやうにいたす事が、わたくしには出来ませんでした。わたくしは只小言ばかり言つてゐました。夫が酒を飲むのは病気だと云ふ所に気が付かなかつたのでございます。夫は飲まなくてはゐられなかつたのでございます。それをわたくしが無理に止めさせようといたしました。それで恐ろしい喧嘩ばかりいたしました。」かう云つてパシエンカはまだ美しい目に苦痛の色を現してセルギウスを見た。
セルギウスはパシエンカが夫に打たれてゐたと云ふ話を思ひ出した。そして頸が痩せ細つて耳の背後《うしろ》に太い静脈が出て、茶褐色の髪が白髪になり掛かつて稀《うす》くなつてゐるパシエンカを見て、此女がどうして今までの日を送つて来たかと云ふ事が、自然に分つて来たやうな気がした。
「それからわたくしは財産のない後家になつて、二人の子供を抱へてゐました。」
「あなたは田地を持つてゐなすつたではありませんか。」
「田地はワツシヤが生きてゐるうちに売り払つて、そのお金は使つてしまひました。どうも暮しに掛かりますものですから。若い女は皆さうでございますが、わたくしは何も分りませんでした。わたくしは誰よりも愚《おろか》で、物分りが悪かつたかと存じます。わたくしは有る丈の物を皆使つてしまひました。それからわたくしは子供に物を教へなくてはならないので、やう/\自分にも少し物が分つて参りました。それからもう四学年になつてゐたミチヤが病気になりまして、神様の許へ引き取られてしまひました。それからマツシヤが今の婿のワニヤが好きになりました。ワニヤは善い人でございますが、不為合な事には病気でございます。」
突然娘が来て母の詞を遮つた。「おつ母さん。ちよいとミツシヤを抱つこして下さい。わたし体を二つに分けて使ふ事は出来ませんから。」
パシエンカはぎくりとした。そして立ち上つて忙しげに、踵の耗《へ》つた靴を引き摩つて戸の外へ出た。間もなく帰つて来た時、パシエンカは二つになる男の子を抱いてゐた。子は反《そ》り返つて両手でお祖母《ば》あさんの領《えり》に巻いてゐる巾《きれ》を引つ張つてゐた。パシエンカは語を継いだ。「どこまでお話いたしましたつけ。ワニヤは此土地で好いお役をしてゐました。上役の方もまことに善いお方でございました。それにワニヤは辛抱が出来ないで、とう/\辞職いたしました。」
「体はどこが悪いのです。」
「神経衰弱と云ふのださうでございます。まことに厭な病気だと見えます。お医者にどういたしたら宜しいかと聞きますと、どこかへ保養に往けと申されます。でもそんなお金はございません。わたくしの考へでは此儘にいたしてゐても、いつか直るだらうかと存じます。別に苦痛と云つてはないのでございますが。」
此時「ルケリア」と男の声で呼んだ。肝癪を起してゐるやうな、その癖元気のない声で、婿が呼んだのである。「いつ呼んだつてゐやしない。己の用のある時はいつでも使に出してある。おつ母さん。」
「すぐ往くよ」とパシエンカは返事をした。そしてセルギウスに言つた。「まだ午《ひる》を食べてゐないのでございます。あれはわたくし共とは一しよに食べられませんので。」パシエンカはかう云ひながら立つて、何やら用をした。それから労働の痕のある、痩せた手を前掛で拭きながら、セルギウスの前へ帰つて来た。「まあ、こんな風にして暮してゐるのでございます。わたくしはいつも苦情ばかり申して、万事不足にばかり思つてゐます。その癖孫は皆丈夫で好く育ちますし、どうにかして暮しては行かれますから、本当は神様にお礼を申さないではならないのでございます。それはさうと、ほんに詰らない事ばかり長々と申しまして。」
「一体なんで暮しを立てゝゐるのですか。」
「それはわたくしが少しづつ儲けますのでございます。小さい時稽古をいたしました自分には厭であつた音楽が役に立つてゐますのでございます。」パシエンカは坐つてゐる傍にある箪笥の上に、細つた手を載せて、殆ど無意識にピアノをさらふやうな指の運動を試みてゐる。
「一時間でどの位貰ひますか。」
「それはいろ/\でございます。一ルウブルの事もあり、五十コペエケンの事もあり、又三十コペエケンしか貰はれない事もあります。でもどちらでも優しくいたしてくれますので。」
「そしてその教へて貰ふ子供は出来ますか。」かう云つたセルギウスの目には殆ど認められぬ程の軽い微笑が見えた。
パシエンカは妙な事を問はれたと不思議に思ふらしく訝《いぶかり》の目をしてセルギウスを見た。「それは出来ますとも。一人なんぞは立派な子でございます。親は肉屋さんですが、それは正直な、可哀らしい娘でございます。ほんにわたしがもつと気が利いてゐましたら、夫には立派な知合がありましたのですから、婿にももつと好い役の出来るやうに世話をして遣る事が出来ましたのでございませうが、なんにも分りませんので、とう/\一家がこんなに落ちぶれてしまひました。」
「成程、成程。」かう云つてセルギウスは頭を項垂《うなだ》れた。「それはさうとお宗旨の方はどうですか。」
「どうぞその方の事は仰やらないで下さいまし。わたくしは本当に不精で、遣り放しでございます。聖餐の時には子供を連れて参りますが、間々《あひだ/\》では一月もお寺に参らずにゐる事がございますの。子供だけは遣りますが。」
「なぜ御自分では往かれないのですか。」
「正直なところを申しますれば、娘や孫の手前が恥かしくてまゐられません。お寺に参るには余り着物が悪くなつてゐます。新しいのは出来ません。それに不精でございますので。」
「そんなら内では御祈祷をなさるのですか。」
「それはいたしますが、実は申訳のないいたしやうでございます。なんの気乗もしないでいたしてゐます。御祈祷はどんなにしていたすものだと云ふ事は存じてゐながら、どうしてもその心持になられません。如何《いか》にも自分が詰らない人間だと承知してをりますので。」パシエンカは顔を赤くした。
「さうさね。どうもさうなり易いものですよ。」セルギウスはさもあらうと思つたらしかつた。
又婿の声がしたので、パシエンカは「すぐ往くから、お待よ」と返事をして、髪を撫で付けて出て行つた。今度は暫く時間が立つて、火屋《ほや》のないブリツキの小ランプを手に持つて帰つて来た。
其時セルギウスはさつきの儘の姿勢で、頭を項垂れて膝に肱を衝いてゐた。併し側に置いてあつた袋をいつの間にか背負つてゐる。セルギウスは疲れたやうな、まだ美しい目を挙げて、パシエンカを見て、深い深い溜息を衝いた。
パシエンカが云つた。「わたくし孫達にはあなたがどなたゞとも申さずに置きました。只昔お心易くした御身分のあるお方で、今巡礼に出て入らつしやるのだと申しました。あちらのお茶の間にお茶が出してありますから、どうぞ入らつしやつて。」
「いえ。もうそれには及びません。」
「そんならこちらへ持つて参りませうか。」
「いえ。それにも及びません。パシエンカさん。あなたのわたくしをもてなして下さつたお礼は、神様がなさるでせう。わたくしはもうお暇《いとま》をします。若しわたくしの事を気の毒だと思つて下さるなら、どうぞ誰にもわたくしに逢つた事を話さずにゐて下さい。神様に掛けて頼むから、誰にも言はないで下さい。本当にわたくしはあなたを難有く思つてゐます。実は土に頭を付けてお礼が言ひたいのですが、さうしたらあなたがお困りでせうから止めます。わたくしの御迷惑を掛けた事は、クリスト様に免じてお恕《ゆる》し下さい。」
「そんならどうぞわたくしに祝福をお授けなすつて。」
「それは神様があなたにお授け下さるでせう。どうぞわたくしの悪かつた事を免《ゆる》して下さい。」かう云つてセルギウスは立ち去らうとした。
併しパシエンカは引き留めて、食パンや、菓子パンや、バタをセルギウスに遣つた。
セルギウスは素直にそれを受けて、戸口を出た。外は闇である。家二軒程の先へ歩いて往つた時は、もう姿がパシエンカの目に見えなかつた。
近く住まつてゐる僧侶の家の犬が吠えた。パシエンカはそれを聞いて、セルギウスがまだ町を出離れない事を知つた。
――――――――――――
セルギウスは考へた。「己の夢はかうしたわけだつた。己はあのパシエンカのやうに暮せば好かつたに、さうしなかつたのだ。己は陽に神の為めに生活すると見せて、陰に人間の為めに生活した。パシエンカはつひ人間の為めに生活する積りでゐて、実は神の為めに生活してゐた。己は人間に種々の利益《りやく》を授けて遣つたやうだが、あんな事をするよりは、難有く思はせようなどと思はずに、水でも一杯人に飲ませた方が増しだつた。ちよいとした善行の方が己の奇蹟よりは好いのだ。その癖己のした事にも、神に仕へると云ふ正直な心が、少しは交つてゐたのだが。」セルギウスはかう考へて、自己を反省して見て、さて云つた。
「成程。その心もないではなかつた。只世間の名聞《みやうもん》を求める心に濁されて、打ち消されてゐたのだ。己のやうに現世の名誉を求めてゐる人間の為めには、神も何もない。己はこれから新に神を尋ねなくてはならない。」
かう思ひ立つたセルギウスは、山を出てからパシエンカを尋ねたまでと同じやうに、村から村へとさまよつた。一人で歩く時もある。外の巡礼共と一しよに歩く時もある。そしてクリストの御名を唱へて、食を求め、宿を借る。その間には意地の悪い百姓の女房に叱られる事もある。酒に酔つた百姓に嘲《あざけ》られる事もある。併し大抵は飲食にありつき、銭をも貰ふ。セルギウスの風采が立派なので、尊敬してくれるものがあるかと思へば、又どうかするとあんな立派な奴が落ちぶれて、好い気味だと思ふらしいものもある。併し詰りはセルギウスの方で飽くまで優しくするので、どんな人にも打ち勝つて行く。
どうかして人の家に聖書のあるのを見付けると、その中から一節づつ読んで聞かせる。その度毎に人は皆感動して、驚きの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。それはセルギウスが読むのを聞けば、今まで好く知つてゐた筈の事も、全く新しい事のやうに聞えるからである。
どこかで人の相談を受けて智慧を貸して遣つたり、又人の力になる事をして遣つたり、喧嘩の仲裁をして遣つたりする事があつても、セルギウスは人の礼を言ふのを待たずに、その場を立ち退く。さうしてゐるうちに、次第にセルギウスの心に神の啓示が現れて来た。
或る時セルギウスは婆あさん二人、癈兵一人と連になつて、街道《かいだう》を歩いてゐた。
すると紳士と貴夫人とが、馬の挽いた橇に乗つて来た。その側には今一人の紳士と今一人の貴夫人とが騎馬で付いてゐた。橇の中の貴夫人は年を取つてゐて、その夫と娘とが馬に乗つて附いてゐるのらしい。橇の中にゐる男は旅中の外国人である。多分フランス人だらう。
此一行がセルギウス等を見て馬を駐《と》めた。フランス人らしい男に 〔les《レエ》 pe`lerins《ペルレン》〕(巡礼)を見せようと云ふのである。巡礼と云ふものは、乞食をして歩くもので、百姓の迷信を利用して生活して行くのだと思つてゐる人達である。一行は巡礼に分らせない積りでフランス語で会話をしてゐる。
フランス人らしいのが云つた。「〔Demandez《ドマンデエ》 leur《リヨオル》, s'ils《シル》 sont《ソン》 bien《ビエン》 su^rs《シユウル》 de《ド》 ce《シ
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