りした事があると云ふ記念品になつて残つてゐるだけである。
 毎日客の数が殖えて、セルギウスは祈祷をしたり、心の修養を謀つたりする時間が少くなつた。稀《まれ》に心の明るくなつた刹那が来ると、セルギウスは自分を地から湧く泉に此べて見る。自分は最初から水の湧く力の弱い泉ではあつたが、兎に角生きた水が噴き出してゐた。静に底から洩いて来て、外へ溢れてゐた。その泉のやうに、自分は素《も》と真《しん》の生活をしてゐたのだ。そこへあの女が来た。今では尼になつてアグニアと呼ばれてゐる女である。あれが来てゐた一晩の間、自分はあれが事を思ひ続けてゐたが、それと同じやうに今でもあれが事は心に刻まれて残つてゐる。あの女は自分が真の生活をしてゐる時、自分を誘惑しに来たのだ。そしてその清い泉の一口を飲んだ。それから後はもう自分の泉には水がたんとは溜まらない。そこへ咽のかわく人が大勢来てせぎ合つて、互に押し退けようとしてゐる。その人達の足で、昔の泉は踏み躪《にじ》られて跡には汚い泥が残つてゐる。セルギウスは稀に心の明るくなつた刹那には、こんな風に考へてゐる。併しそれは稀の事で、不断は疲れてゐる。そして自分の疲れた有様
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