よ、神の子よ、我に御恵《みめぐみ》を垂れ給へ」と繰り返してゐた。セルギウスの耳には何もかも聞えてゐる。女が着物を脱いだ時、絹のさら/\と鳴る音も聞えた。セルギウスは気が遠くなるのを感じた。次の一刹那には堕落してしまふかも知れぬやうな気がした。そこで暫くも祈祷を絶やさなかつた。此時のセルギウスの感情は、昔話の主人公が、背後《うしろ》を振り返つて見ずに、前へ前へと歩いて往かなくてはならぬ時の感情と同じ事だらう。セルギウスには身の周囲に危険があり害毒があるのが分つてゐる。そしてその方を一目も見ずにゐるのが、唯一の活路だと云ふことが分つてゐる。それに突然、どうしてもあつちの方を見なくてはゐられないと云ふ不可抗力のやうな慾望が起つた。それと同時に女の声がした。「お聞きなさいよ。あなたそれでは人道にはづれてお出なさいますよ。わたくしは死んでしまふかも知れません。」
「好いわ。己はあいつの所へ往つて遣らう。併し昔の名僧は片手を火入《ひいれ》の中へ差込んで、片手で女の体を押へたと云ふことだ。己もさうしよう。だがこゝには火入はない。」セルギウスは四辺《あたり》を見廻した。そしてランプが目に付いた。セルギ
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